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『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』<< Atonement >>  作者: 東曌


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第四話 責任という言葉

第四話 責任という言葉


 その週の水曜日、午前十時。


 真帆がメールの返信を終えたところで、社内チャットに通知が表示された。


『本日午後三時より、全体ミーティングを行います。各自、会議室に集合してください』


 発信者は黒田課長だった。


 議題は書かれていなかった。


 月末の業務予定についてだろうか。それとも、先週から続いている取引先との調整についてだろうか。


 真帆は、そう考えて、画面を閉じた。


 午後三時。


 会議室には、営業部と総務部の社員が集まっていた。


 長机の上には、人数分の資料が置かれている。壁際のホワイトボードには、黒田課長が書いたらしい文字があった。


 ――感染症対策について。


 真帆は、自分の席を探しながら、その文字を見つめた。


 ああ、と思った。


 このところ、社内でも感染症の話題が増えていた。


 取引先からの問い合わせ。出張時の対応。体調不良者が出た場合の連絡方法。在宅勤務の運用。


 会社として、決めておかなければならないことはいくつもある。


 それ自体に、異論はなかった。


 会社には、社員の健康を守る責任がある。


 業務を継続するために、感染拡大を防ぐ工夫も必要だろう。


 真帆は資料を手に取り、空いている席に座った。


 隣には由紀がいた。


「これ、何の話だろうね」


 由紀が小声で尋ねた。


「感染症対策って書いてあるね」


「うん。最近、会社もいろいろ大変そうだし」


 由紀は資料をめくった。


 その向こう側では、高橋修が椅子を引いて座るところだった。


 高橋は、普段から口数の多い人ではない。


 仕事は丁寧で、頼まれたことはきちんとこなす。誰かが困っていれば、黙って手を貸すこともある。


 ただ、会議で自分から発言することは少なかった。


 真帆は、彼に軽く会釈した。


 高橋も、小さく頭を下げた。


 やがて黒田課長が入室し、会議が始まった。


     *


「皆さん、忙しいところ集まっていただいて、ありがとうございます」


 黒田課長は、いつもの落ち着いた声で話し始めた。


「本日は、感染症対策について、あらためて皆さんと共有したいと思います」


 スクリーンには、社内で実施している対策が映し出された。


 体調不良時の報告。


 必要に応じた在宅勤務。


 職場内の換気。


 手洗いや消毒。


 人が集まる場面での配慮。


 どれも、職場で働く人たちを守るための取り組みだった。


「感染症については、まだ不確かな部分もあります。だからこそ、私たち一人ひとりが、できることを続けていく必要があります」


 黒田課長は、そこで一度、全員を見渡した。


「自分の健康を守ることはもちろんですが、周囲の人への配慮も忘れないでいただきたいと思います」


 真帆は、資料に目を落とした。


 ここまでは、理解できた。


 誰かが体調を崩せば、本人もつらいし、職場にも影響が出る。


 周囲への配慮は必要だ。


 それは、感染症に限った話ではない。


 けれど、次の言葉を聞いたとき、真帆の手が止まった。


「また、ワクチン接種についても、各自で正確な情報を確認し、適切に判断していただければと思います」


 黒田課長は、資料を一枚めくった。


「会社として、皆さんの健康と安全を大切に考えています。接種について不安や疑問がある方は、公的な情報や医療機関などで確認してください」


 そこまでは、特に問題のない説明に聞こえた。


 真帆も、うなずいた。


 しかし、黒田課長は続けた。


「そのうえで、職場全体の安心にもつながるよう、皆さん、ご協力をお願いします」


 その言葉が、会議室に静かに落ちた。


 皆さん、ご協力をお願いします。


 真帆は、その一文を頭の中で繰り返した。


 何を、どこまで協力すればいいのだろう。


 感染症対策を守ることだろうか。


 体調に気を配り、必要な情報を確認することだろうか。


 それとも、接種について、会社が望ましいと考えている方向へ進むことだろうか。


 黒田課長は、接種を命じたわけではない。


 接種しない社員を非難したわけでもない。


 むしろ、個人の判断を尊重すると説明していた。


 それなのに、真帆には、最後の一言が妙に重く感じられた。


 協力をお願いします。


 その言葉には、断る余地がある。


 少なくとも、言葉の上では。


 けれど、職場という場所では、断ること自体が、周囲に何らかの説明を求められる行為になることがある。


 なぜ協力しないのか。


 なぜ、みんなと同じようにしないのか。


 そう聞かれたとき、自分は何と答えればいいのだろう。


 真帆は、ペンを持ち直した。


 隣で、由紀が小さくうなずいていた。


     *


「何か質問はありますか」


 説明を終えた黒田課長が尋ねた。


 会議室は静かだった。


 誰も手を挙げなかった。


 真帆は、資料を見つめていた。


 質問は、あった。


 接種について個人の判断を尊重するのであれば、会社として、接種の有無をどこまで確認するのだろう。


 接種しないと判断した社員がいた場合、職場での扱いに違いは生じるのだろうか。


 体調や持病などの事情がある場合、相談できる窓口はあるのだろうか。


 そして、「職場全体の安心」とは、具体的に何を意味しているのだろう。


 真帆は、質問を頭の中で組み立てた。


 ひとつずつ聞けば、どれも不自然な質問ではないはずだった。


 会社の方針を知りたいだけだ。


 自分が何を求められているのか、確認したいだけだ。


 けれど、会議室を見渡したとき、真帆は口を開けなかった。


 同僚たちは、資料をしまったり、手帳に予定を書き込んだりしていた。


 由紀は、黒田課長のほうを向いている。


 高橋は、机の上に置いたペンを指先で転がしていた。


 誰も、何も尋ねようとしていないように見えた。


 この場で自分だけが質問したら、どう思われるだろう。


 面倒な人だと思われるだろうか。


 会社の方針に協力したくない人だと思われるだろうか。


 接種について迷っていることまで、みんなに知られてしまうだろうか。


 そんな考えが、次々に浮かんできた。


 そのとき、高橋が顔を上げた。


 一瞬、黒田課長と目が合ったようだった。


 高橋は、何か言おうとするように唇を開いた。


 けれど、すぐに口を閉じた。


 ペンを机の上に置き、資料の端をそろえた。


「では、本日の内容を踏まえて、引き続き各自で対応をお願いします」


 黒田課長が会議を締めくくった。


「何か困ったことや、確認したいことがあれば、いつでも相談してください」


 社員たちは立ち上がった。


 椅子を引く音が重なり、会議室に日常のざわめきが戻ってきた。


 真帆は、質問をひとつも口にしなかった。


 高橋も、何も言わなかった。


 会議が終わったとき、真帆は、みんなが納得したのだと思いかけた。


 誰も異論を唱えなかった。


 誰も質問しなかった。


 だから、みんな、あの説明でよかったのだろう。


 そう考えかけて、真帆は立ち止まった。


 本当に、そうなのだろうか。


 質問がなかったことは、全員が納得したという意味なのだろうか。


 それとも、質問をしなかっただけなのだろうか。


     *


 会議室を出たあと、由紀が真帆の隣に並んだ。


「まあ、会社としても、いろいろ考えなきゃいけないんだろうね」


「そうだね」


「みんなが安心して働けるようにしないといけないし」


「うん」


 真帆は、うなずいた。


 由紀の言葉に、反対したいわけではなかった。


 職場全体の健康や安全を考えることは必要だ。


 会社には、社員を守る責任がある。


 ただ、その責任という言葉が、どこまでを意味するのかが気になっていた。


「ねえ、由紀」


「何?」


「さっきの課長の話、どう思った?」


「どうって?」


「接種について、各自で判断してくださいっていうところ」


 由紀は、少し考えた。


「うーん。まあ、会社としては、個人の判断に任せるってことじゃない?」


「そうだね」


「でも、やっぱり、みんなができる対策をしてくれたら安心だと思うよ」


 由紀は、悪気なく笑った。


「自分だけじゃなくて、周りの人のこともあるしね」


 真帆は、返事をしなかった。


 由紀は、真帆の表情を見て、少し声を落とした。


「……また、何か気になってる?」


「ううん。ちょっと考えてただけ」


「そっか」


 由紀はそれ以上、聞かなかった。


 その気遣いが、真帆にはありがたかった。


 同時に、さっきの会議で質問できなかった自分のことを思い出した。


 由紀には、まだ話せる。


 少なくとも、二人のあいだには、考えを伝える余地がある。


 けれど、職場全体の前では、そうはいかなかった。


 個人的な関係の中でさえ難しいことを、組織の中で口にするのは、もっと難しいのかもしれない。


     *


 午後五時を過ぎたころ、真帆は資料を整理していた。


 高橋が、コピー機の前で紙をそろえているのが見えた。


 真帆は、少し迷ってから声をかけた。


「高橋さん」


「はい?」


「さっきの会議、どう思いました?」


 高橋は、手にしていた書類をそろえるのをやめた。


「会議、ですか」


「うん。感染症対策の話」


「ああ……」


 高橋は、コピー機のほうを一度見た。


 それから、真帆に向き直った。


「まあ、会社としては、ああいう説明になるんじゃないですかね」


「そうですね」


「個人の判断を尊重するって言ってましたし」


 そこで、高橋は言葉を切った。


 何か、続きがあるように見えた。


 真帆は、少し待った。


「……でも?」


 高橋は、困ったように笑った。


「いや。別に、大したことじゃないです」


 真帆は、それ以上尋ねなかった。


 高橋も、書類を持って自分の席へ戻っていった。


 短い会話だった。


 けれど、真帆には、彼も何かを考えているように思えた。


 ただ、それを口にしなかった。


 理由はわからない。


 真帆と同じ考えなのかもしれないし、まったく違う考えなのかもしれない。


 単に、仕事が忙しくて話す気になれなかっただけかもしれない。


 人の沈黙には、いろいろな理由がある。


 それなのに、沈黙を見ている側は、つい意味を決めたくなる。


 賛成なのだろう。


 反対ではないのだろう。


 何も言わないのだから、納得しているのだろう。


 真帆自身も、会議のとき、そんなふうに考えかけていた。


 誰も質問しなかった。


 だから、みんな納得しているのだろう、と。


 けれど、自分は納得していなかった。


 質問したいことがあった。


 それでも、何も言えなかった。


 だったら、ほかの人も同じだった可能性はある。


 誰もが、周りの様子をうかがっている。


 誰かが先に口を開けば、自分も話せるかもしれない。


 けれど、誰も口を開かない。


 そして、沈黙が続く。


 その沈黙を見て、みんなは納得しているのだと思う。


 その思い込みが、また次の沈黙を生む。


 真帆は、コピー機の前で立ち止まったまま、しばらく考えていた。


     *


 帰りの電車は、いつもより混んでいた。


 真帆はつり革につかまり、窓に映る自分の顔を見ていた。


 今日の会議で、黒田課長は何も間違ったことを言っていなかったのかもしれない。


 社員の健康を守ろうとしていた。


 会社としての責任を果たそうとしていた。


 接種についても、各自で情報を確認し、判断するように説明していた。


 その言葉自体に、問題があったと決めつけることはできない。


 けれど、真帆が気になったのは、言葉そのものよりも、その言葉が置かれた場所だった。


 会社という場所。


 上司と部下という関係。


 みんなの前で発言するという状況。


 そこで口にされる「お願い」は、いつも同じ重さを持つのだろうか。


 友人から「お願い」と言われるとき。


 家族から「お願い」と言われるとき。


 上司から「お願い」と言われるとき。


 言葉は同じでも、受け取る側の気持ちは違う。


 断ったら、どうなるだろう。


 断ったら、どう思われるだろう。


 断ったら、次の仕事に影響するだろうか。


 誰も、そんなことは言っていない。


 黒田課長も、何かを強制したわけではない。


 それでも、真帆は、質問を口にできなかった。


 その事実だけは、変わらなかった。


 電車が駅に停車した。


 乗客が降り、別の人たちが乗ってくる。


 人の流れに押されながら、真帆はつり革を握り直した。


 責任。


 その言葉は、重い。


 自分の行動に責任を持つこと。


 周囲の人を気遣うこと。


 組織として、社員を守ること。


 どれも、大切なことだ。


 けれど、責任という言葉が、いつの間にか、ひとりの人に疑問を口にさせないための言葉になってしまうとしたら。


 何かを尋ねることが、無責任だと受け取られるようになってしまうとしたら。


 それは、本当に責任を果たすことなのだろうか。


     *


 翌朝、真帆はいつもより少し早く出社した。


 メールを確認し、今日の予定を整理していると、高橋がやってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 高橋は席に荷物を置き、パソコンを立ち上げた。


 それから、周囲に誰もいないことを確かめるように、少しだけ声を落とした。


「水野さん」


「はい?」


「昨日の会議のことなんですけど」


 真帆は、顔を上げた。


「うん」


「……ああいうとき、質問するのって、難しいですよね」


 真帆は、すぐには答えられなかった。


 高橋は、照れくさそうに笑った。


「いや、変な意味じゃないですよ。会社の方針に反対したいとか、そういうことじゃなくて。ただ、確認したいことがあっても、みんなが何も言わないと、なかなか聞きづらいというか」


 真帆は、ゆっくりとうなずいた。


「わかります」


「そうですか」


「私も、聞きたいことがあったんです。でも、結局、何も言えませんでした」


 高橋は、少し驚いたような顔をした。


「水野さんも?」


「はい」


 それから、二人は短い沈黙を挟んだ。


 その沈黙は、昨日の会議室で感じたものとは違っていた。


 何かを隠さなければならない沈黙ではなかった。


 無理に賛成する必要も、反対する必要もなかった。


 ただ、相手が自分と同じように、質問を口にできなかったことを知った。


 それだけだった。


 高橋は、少し安心したように息を吐いた。


「……自分だけじゃなかったんですね」


 その言葉を聞いたとき、真帆は胸の奥が、わずかに温かくなるのを感じた。


 自分だけではなかった。


 その一言は、思っていたよりも大きかった。


 昨日、会議室で沈黙していた人たちの中に、どんな思いがあったのか。


 真帆には、まだわからない。


 由紀は、会社の説明に納得していたのかもしれない。


 黒田課長の言葉を、何の疑問もなく受け止めた人もいたかもしれない。


 けれど、全員が同じ気持ちだったと決めつけることもできない。


 沈黙は、賛成とは限らない。


 質問しなかったことは、疑問がなかったことを意味しない。


 そして、誰も反対しなかったからといって、全員が同じ考えを持っているとは限らない。


 真帆は、昨日の会議室を思い出した。


 あのとき、もし自分が質問していたら。


 もし高橋が、何かを言いかけたときに、そのまま話していたら。


 会議の空気は、少し変わっていたのだろうか。


 それとも、何も変わらなかったのだろうか。


 わからない。


 けれど、ひとつだけ、昨日とは違うことがあった。


 真帆は、自分の疑問を、ひとりで抱え込まなくてもいいのかもしれないと思った。


     *


 昼休み。


 真帆と由紀は、社員食堂で向かい合っていた。


 由紀は、昨日の会議について、特に不満はないようだった。


「会社も、ちゃんと対策を考えてくれてるんだね」


「そうだね」


「何かあったときに、相談できるっていうのも安心だし」


「うん」


 真帆は、由紀の言葉を聞きながら考えていた。


 由紀が安心していることは、悪いことではない。


 会社の説明に納得できたのなら、それでいい。


 自分と違う受け止め方をしているからといって、由紀を責める理由はない。


 ただ、同じ説明を聞いても、人によって感じ方は違う。


 安心する人もいる。


 疑問が残る人もいる。


 何も感じない人もいるかもしれない。


 そして、疑問があっても、口にできない人もいる。


 それなのに、誰も質問しなかったという事実だけが残れば、あとから振り返ったとき、みんなが納得していたように見えるのかもしれない。


 真帆は、箸を置いた。


「ねえ、由紀」


「ん?」


「昨日の会議で、何か質問したいことはなかった?」


 由紀は、少し考えた。


「うーん。特にはなかったかな」


「そっか」


「どうして?」


「いや、私は少しあったから」


 由紀は、意外そうな顔をした。


「そうなんだ。何を聞きたかったの?」


 真帆は、少し迷った。


 昨日なら、きっと話せなかっただろう。


 けれど、高橋と話したことで、自分の疑問を口にすることが、必ずしも誰かを否定することにはならないのだと、少しだけ思えるようになっていた。


「会社が言う『職場全体の安心』って、具体的に何を意味してるのかなって」


「職場全体の安心?」


「うん。感染症対策をすることは大事だと思う。でも、何をすれば安心につながるのか、もう少し具体的に知りたいなと思って」


 由紀は、考え込むように目を伏せた。


「……そう言われると、確かに、ちょっと曖昧だったかもね」


 真帆は、驚いて由紀を見た。


 由紀は、笑った。


「いや、私も、ちゃんと考えたことなかったから」


「そうなんだ」


「うん。会社がそう言うなら、そういうものなのかなって」


 由紀は、そこで言葉を切った。


 それから、少し照れくさそうに付け加えた。


「でも、こういうのって、聞いてみないとわからないこともあるよね」


 真帆は、静かにうなずいた。


 由紀が考えを変えたわけではない。


 接種について、二人の意見が一致したわけでもない。


 ただ、昨日の説明に疑問を持つことと、会社に協力したくないと思うことは、同じではないのだと、少しだけ共有できた気がした。


 それは、小さなことだった。


 けれど、真帆には、大切なことのように思えた。


     *


 その日の夕方、黒田課長は、真帆たちの部署を回っていた。


「何か困っていることはありませんか」


 いつものように、社員一人ひとりに声をかけている。


 真帆は、パソコンの画面から顔を上げた。


 質問するなら、今かもしれない。


 そう思った。


 昨日の会議では、聞けなかった。


 けれど、今日なら。


 真帆は、椅子から少し身を起こした。


「課長、ひとつ確認してもいいですか」


「はい、何でしょう」


「昨日の感染症対策の話なんですが」


 黒田課長は、足を止めた。


「はい」


「接種については、個人で判断するという説明でしたよね」


「ええ、そうです」


「そのうえで、職場全体の安心につながるように協力を、というお話がありましたけど……具体的には、どのようなことを想定されているのでしょうか」


 真帆は、できるだけ落ち着いて尋ねた。


 黒田課長は、すぐには答えなかった。


 ほんの数秒、考えるような表情を浮かべた。


「そうですね」


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「まずは、会社が定めている感染症対策を守っていただくことです。体調不良時の報告や、必要なときの在宅勤務などですね」


「はい」


「接種については、個々の健康状態や事情もありますから、会社として一律に求めるものではありません。判断に迷う場合は、医療機関などで相談していただければと思います」


 真帆は、うなずいた。


 それは、知りたかった説明のひとつだった。


「わかりました。ありがとうございます」


「いえ。ほかにも不明な点があれば、遠慮なく聞いてください」


 黒田課長は、そう言って別の社員の席へ向かった。


 真帆は、椅子に座り直した。


 胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけていた。


 何かを尋ねたからといって、すぐに問題が起きるわけではなかった。


 課長も、真帆の質問を責めなかった。


 もちろん、これから先も、同じように話せるとは限らない。


 質問の内容や、相手の受け止め方によっては、難しい場面もあるだろう。


 それでも、聞いてみなければわからなかったことが、確かにあった。


 真帆は、画面に向き直った。


 メールの未読件数は、まだいくつも残っている。


 今日中に片づけなければならない仕事もある。


 日常は、何も変わらず続いていた。


 けれど、真帆の中では、ひとつのことが少しだけ変わっていた。


 責任を持つということは、ただ周囲と同じ行動をすることではない。


 自分が何を求められているのかを確かめること。


 わからないことを尋ねること。


 そして、自分の判断に必要な情報を得ようとすること。


 それもまた、責任を果たすための行動なのかもしれない。


 真帆は、そう思った。


     *


 帰宅後、真帆はノートを開いた。


 第二話で書き出した項目の下に、今日の出来事を少しだけ書き加える。


 会社が定めている対策。


 接種に関する相談先。


 自分が判断するために確認したいこと。


 それから、ノートの端に、小さく一行を書いた。


 ――質問することは、協力しないことではない。


 書き終えて、真帆はペンを置いた。


 今日、自分は質問をした。


 それだけのことだ。


 世界が変わったわけではない。


 職場の空気が、すっかり自由になったわけでもない。


 由紀との考えの違いが、消えたわけでもない。


 けれど、疑問を口にしたからといって、誰かを敵に回さなければならないわけではないのかもしれない。


 そう思えたことが、真帆にはうれしかった。


 ただ、その一方で、もうひとつのことも気になっていた。


 昨日の会議室で、誰も質問しなかったこと。


 高橋が、何かを言いかけて、口を閉じたこと。


 自分自身も、聞きたいことがありながら、周囲の様子をうかがっていたこと。


 あの場にいた人たちは、本当にみんな納得していたのだろうか。


 それとも、それぞれに疑問を抱えながら、誰も最初の一言を口にできなかったのだろうか。


 真帆は、ノートの最後に、もう一行を書いた。


 ――誰も反対しなかったことと、誰も疑問を持っていなかったことは、同じではない。


 その文字を、しばらく見つめた。


 翌日、また会社へ行けば、みんなはいつもどおり働くだろう。


 会議で何が話されたかなど、すぐに忘れてしまう人もいるかもしれない。


 それでも、あの沈黙の中に、言葉にならなかった思いがあったとしたら。


 それを、なかったことにしてしまいたくはなかった。


 真帆はノートを閉じた。


 責任という言葉は、誰かを黙らせるためにも使われる。


 けれど、本当は、自分の行動について考え、必要なことを尋ね、ほかの人の事情にも目を向けるための言葉であってほしい。


 そう思った。


 そして、まだ見ぬ次の会議を想像した。


 もし、次に誰かが質問したら。


 もし、誰かが「私は、少し違う考えを持っています」と言ったら。


 そのとき、自分はどんな顔をするだろう。


 耳を傾けるだろうか。


 それとも、知らないうちに、その人を面倒な人だと思ってしまうだろうか。


 真帆は、答えを急がなかった。


 自分だって、いつも正しく振る舞えるとは限らない。


 恐怖を感じれば、安心できる答えにすがりたくなるかもしれない。


 周りと違う人を見れば、理由を知る前に、距離を置きたくなるかもしれない。


 だからこそ、考え続けたいと思った。


 誰かに求める前に、自分自身に問いかけるために。


 ――私は、誰かの沈黙を、勝手に賛成だと決めつけていないだろうか。


 夜の部屋は静かだった。


 真帆は明かりを消し、ベッドに入った。


 明日も、いつもの一日が始まる。


 その日常の中で、誰かの小さな疑問が、きちんと言葉になる場所があればいい。


 そして、その言葉を聞いた人が、すぐに賛成も反対もせず、まずは耳を傾けられたらいい。


 それだけでも、何かが変わるのかもしれない。


 真帆は、目を閉じた。


 会議室に漂っていた沈黙を、もう一度思い出した。


 あの沈黙は、何を意味していたのだろう。


 納得だったのか。


 諦めだったのか。


 遠慮だったのか。


 それとも、誰かが先に口を開くのを待っていたのだろうか。


 答えは、まだわからない。


 けれど、真帆は初めて、その沈黙の向こう側に、ひとりひとりの人間がいるのだと思った。


 それぞれの事情を抱え、それぞれの不安を抱え、言えなかった言葉を胸にしまっているかもしれない人たちが。


 そして、その中の誰かが、いつか最初の一言を口にするのかもしれない。


 そのとき、その言葉を「みんなと違う」という理由だけで、退けてしまわないように。


 真帆は、心の中で、そう願った。

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