第三話 あなたのためを思って
第三話 あなたのためを思って
月曜日の朝、真帆が会社に着くと、由紀はすでに自分の席に座っていた。
「おはよう」
「おはよう、真帆」
由紀はいつもと変わらない笑顔を見せた。
机の上には、飲みかけのコーヒーと、開いたままの手帳。パソコンの画面には、週末に届いたらしいメールが表示されている。
いつもの朝だった。
真帆も、自分のパソコンを立ち上げ、メールを確認した。
けれど、しばらくして由紀が声をかけてきたとき、真帆は、ほんの少し身構えてしまった。
「ねえ、真帆」
「ん?」
「この前の話、考えてみた?」
この前の話。
ワクチンのことだと、すぐにわかった。
「ああ、うん。まだ調べてるところ」
「そっか」
由紀はうなずいた。
それから、何かを言いかけて、少し迷うように口を閉じた。
「……あのね、私、別に真帆を責めたいわけじゃないんだよ」
「うん?」
「ただ、心配で」
由紀の声は、思いのほか真剣だった。
「今って、いつどこで感染するかわからないじゃない。自分だけの問題じゃないし。家族だっているし、職場だってあるし」
「うん。そうだね」
「だから、できることはしておいたほうがいいんじゃないかなって」
真帆は、すぐには答えなかった。
由紀の言っていることは、理解できた。
感染を防ぎたい。
自分や家族を守りたい。
職場の人たちにも、迷惑をかけたくない。
その気持ちは、真帆にもあった。
むしろ、そうした気持ちがあるからこそ、自分にできることを知りたいと思っていた。
ただ、由紀の言葉を聞いていると、いつの間にか話の意味が変わっているような気がした。
できることをする。
それが、いつの間にか、みんなと同じ選択をすることになっている。
「ありがとう。心配してくれてるんだよね」
真帆は、そう答えた。
「うん。もちろん」
由紀は、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、真帆はそれ以上何も言えなくなった。
相手が自分を心配してくれているとき、その気持ちを傷つけずに、自分の考えだけを伝えることは、案外難しい。
とくに、相手に悪意がないとわかっているときは。
*
昼休み、二人はいつものように社員食堂へ向かった。
窓際の席は空いていた。
由紀は定食を、真帆はうどんを注文した。
「そういえばさ」
食事を始めてしばらくしたころ、由紀が言った。
「うちの母、最初はワクチンを怖がってたんだよね」
「そうなの?」
「うん。副反応がどうとか、ニュースで見た人がどうとか。いろいろ気にしてて」
由紀は箸を動かしながら続けた。
「でも、年齢的にも感染したときのことが心配だったし、かかりつけの先生にも相談して、本人も納得して受けたの」
「そうだったんだ」
「今は、受けてよかったって言ってるよ」
由紀は少しうれしそうだった。
母親が安心していることが、由紀自身の安心にもつながっているのだろう。
「それなら、よかったね」
真帆が言うと、由紀はうなずいた。
「うん。だから、真帆にもちゃんと考えてほしいんだ」
「考えてるよ」
「そうなんだけど……」
由紀は言葉を切った。
食堂の中では、あちこちのテーブルから話し声が聞こえていた。
誰かが仕事の愚痴をこぼし、誰かが週末の予定を話し、別の席ではテレビ番組の話で笑い声が起きていた。
その中で、由紀は声を少し落とした。
「真帆って、調べれば調べるほど、迷っちゃうんじゃない?」
「そうかもしれない」
「情報って、いろいろあるじゃない。何を信じたらいいかわからなくなることもあるでしょ」
「うん」
「だから、専門家の話を聞いたり、信頼できるところの情報を見たりするのは大事だと思うんだよね」
「私も、そう思うよ」
真帆は答えた。
実際、そう思っていた。
誰かの体験談だけで判断するつもりはなかった。公的な情報を読み、わからないことは確認し、必要なら医療従事者にも相談したいと思っていた。
ただ、その先の判断まで、他人に任せてしまいたいわけではなかった。
自分の状況を踏まえて、理解して、決めたい。
その思いを、どう言えば伝わるのだろう。
「私ね」
真帆は、うどんの汁を見つめながら言った。
「誰かが打ったことを、間違いだって言いたいわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただ、自分のことだから、ちゃんとわかってから決めたいの」
由紀は、少しだけ眉を寄せた。
「でも、真帆が迷ってるあいだにも、感染する可能性はあるよね?」
真帆は顔を上げた。
「それは、そうだね」
「だったら、早く決めたほうがいいんじゃないかなって」
由紀の声には、責めるような響きはなかった。
それどころか、真帆を気遣うような、やさしい調子だった。
だからこそ、真帆は戸惑った。
早く決めることと、よく考えて決めること。
その二つは、必ずしも同じではない。
けれど、そう言い返せば、由紀の心配を否定することになるのだろうか。
「……もう少しだけ、調べてみるね」
結局、真帆はそう言った。
由紀は、納得したのか、しなかったのか、よくわからない顔でうなずいた。
「うん。まあ、真帆のことだから、ちゃんと考えてるんだろうけどね」
その言葉に、真帆は笑顔を返した。
食事は、そのまま終わった。
けれど、真帆の中では、何かが少しずつ変わり始めていた。
*
その日の夕方、仕事を終えた真帆は、駅へ向かう道を歩いていた。
スマートフォンが震えた。
由紀からのメッセージだった。
『さっきはごめんね。なんか、いろいろ言っちゃって』
真帆は足を止めた。
続けて、もう一通届いた。
『でも、本当に心配してるんだよ。真帆に何かあったら嫌だから』
真帆は、画面を見つめた。
由紀は、悪い人ではない。
学生時代からの友人で、仕事で失敗したときには助けてくれた。落ち込んでいるときには、何も聞かずにコーヒーを買ってきてくれたこともある。
真帆が風邪で休んだときには、仕事の資料を家まで届けてくれた。
そういう人だった。
だから、由紀の心配を疑いたくはなかった。
心配してくれている。
それは、きっと本当なのだ。
真帆は返信を打った。
『ありがとう。心配してくれてうれしいよ。私もちゃんと考えてるからね』
送信した。
ほどなくして、由紀から返事が来た。
『うん。ごめんね。おせっかいで』
真帆は、少し笑った。
そして、スマートフォンをバッグにしまった。
これでよかったのだと思った。
由紀の気持ちを受け止めて、自分の考えも伝えた。
お互いに、少しずつ理解できればいい。
そう考えた。
けれど、駅の改札へ向かいながら、真帆はふと気づいた。
自分は、何を伝えたのだろう。
「心配してくれてうれしい」とは伝えた。
「ちゃんと考えている」とも伝えた。
でも、自分が何を不安に思い、何を確かめたいのかは、ほとんど話していなかった。
由紀を傷つけたくなくて、言葉を選んだ。
その結果、自分の本当の疑問は、口に出さずに終わった。
それは、思いやりなのだろうか。
それとも、衝突を避けるための沈黙なのだろうか。
真帆には、まだわからなかった。
*
翌週、会社の給湯室で、真帆は由紀と一緒になった。
由紀は紙コップを持ち、コーヒーを淹れていた。
「そうだ、真帆」
「ん?」
「この前、母が言ってたんだけどね」
由紀は、コーヒーの量を確かめながら話した。
「やっぱり、こういうときって、周りの人もちゃんと受けてくれてると安心するって」
真帆は、黙って聞いていた。
「自分だけじゃなくて、みんなで気をつけてるって思えるからかな」
「……そっか」
「うん。だからさ、私も真帆が受けてくれたら安心すると思う」
由紀は振り返った。
「もちろん、最後は真帆が決めることだけどね」
その言葉を聞いて、真帆は少しほっとした。
最後は、自分が決める。
由紀も、そう考えてくれているのだ。
そう思った。
けれど、由紀は続けた。
「でも、もし真帆が受けないままで、誰かにうつしちゃったら……って考えると、やっぱり心配になるんだよね」
給湯室の空気が、急に静かになった気がした。
真帆は、手にしていたマグカップを見つめた。
感染症には、さまざまな感染経路がある。
ワクチンを受けることにも、受けないことにも、それぞれの医学的な検討事項がある。
感染を完全に防げると単純に言い切れるわけではないし、個々の状況を無視して、すべての人に同じ判断を当てはめられるわけでもない。
真帆は、そうしたことを、少しずつ学んでいるところだった。
でも今、由紀が求めているのは、医学についての説明ではないのかもしれない。
由紀がほしいのは、安心なのだ。
自分の周りの人が、自分と同じように行動しているという安心。
みんなで同じ方向を向いているという安心。
その中に真帆もいてくれたら、きっと気持ちが楽になる。
由紀にとって、それは自然な願いなのだろう。
真帆は、由紀を責めたいとは思わなかった。
それでも、胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
「由紀」
「ん?」
「私、由紀のことを不安にさせたいわけじゃないんだよ」
「うん。わかってる」
「ただ、自分で納得して決めたいの」
由紀は、紙コップを持ったまま、しばらく黙っていた。
「……うん」
やがて、小さくうなずいた。
「それは、わかるよ」
真帆は、少し安心した。
けれど、由紀はそのあと、困ったように笑って言った。
「でもね。わかるのと、安心できるのは、ちょっと違うんだよね」
真帆は、返事ができなかった。
由紀は悪意から言っているのではない。
自分の不安を、正直に話しているだけなのだ。
それでも、その不安を解消するために、真帆が自分の判断を変えることを期待されている。
そのことが、真帆には苦しかった。
誰かを安心させるために、自分の体についての判断を急がなければならないのだろうか。
相手が心配してくれているのなら、その期待に応えるべきなのだろうか。
自分の選択は、自分だけのものではないのだろうか。
真帆は、何も言わずにコーヒーをひと口飲んだ。
少し、苦かった。
*
その日の帰り道、真帆はスーパーに立ち寄った。
牛乳と卵、それから夕食に使う野菜を買う。
いつもの買い物だった。
レジに並んでいると、前にいた女性が、小さな子どもに話しかけていた。
「ほら、順番だよ。ちゃんと並ぼうね」
子どもは、母親の手を握り、前の人との距離を空けて立った。
真帆は、その光景を何気なく見ていた。
順番を守ること。
周りの人に迷惑をかけないこと。
みんなが決まりを守れば、物事はスムーズに進む。
社会には、そういう約束事が必要だ。
人は、ひとりだけで生きているわけではない。
自分の行動が、誰かに影響を与えることもある。
だからこそ、他人を思いやることは大切なのだ。
真帆も、そう思う。
けれど。
社会の決まりを守ることと、周りの人とまったく同じ考えを持つことは、同じなのだろうか。
周囲を思いやることと、周囲の期待に必ず応えることは、同じなのだろうか。
レジの順番を守ることに、疑問を持つ必要はない。
けれど、自分の体や健康について、疑問を持ち、調べ、考えることまで、遠慮しなければならないとしたら。
それは、少し違うのではないだろうか。
真帆は、買い物袋を持ち直した。
由紀の言葉が、頭の中で繰り返される。
――真帆が受けてくれたら安心する。
――わかるのと、安心できるのは、ちょっと違う。
由紀は、自分の気持ちを正直に話しただけだ。
真帆だって、由紀の不安を理解したいと思っている。
でも、理解することと、相手の望むとおりにすることは、同じではない。
その違いを、どうすれば伝えられるのだろう。
*
帰宅して、真帆は夕食を作った。
食事を終え、食器を洗い、洗濯物を取り込む。
日常の仕事をひとつずつ片づけていると、気持ちは少し落ち着いてきた。
スマートフォンを開くと、由紀からメッセージが届いていた。
『今日はごめんね。ちょっと言いすぎたかも』
真帆は、画面を見つめた。
そして、しばらく考えてから返信した。
『大丈夫だよ。心配してくれてありがとう』
そこまで打って、指が止まった。
いつものように、それだけで終わらせることもできた。
由紀を安心させる言葉を送り、何事もなかったように明日を迎える。
そのほうが、きっと楽だ。
けれど、真帆は、もう一文を書き加えた。
『私も、由紀の気持ちはちゃんと聞きたいと思ってる。でも、私がどう考えているかも、少しずつ話せたらうれしいな』
送信ボタンを押すまでに、何度も迷った。
こんなことを言ったら、面倒な人だと思われるだろうか。
せっかく謝ってくれたのに、蒸し返すように感じられるだろうか。
それでも、真帆は送った。
しばらくして、返信が来た。
『うん。わかった。私も、ちゃんと聞くね』
短いメッセージだった。
真帆は、画面を見ながら、小さく息を吐いた。
これで、何もかも解決したわけではない。
由紀の不安が消えたわけでもない。
真帆自身の迷いがなくなったわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ、自分の気持ちを言葉にすることができた。
それだけだった。
それだけのことが、今の真帆には、思っていたよりも大きな一歩に感じられた。
*
ベッドに入る前、真帆は叔母のことを思い出した。
あのひと月以上の日々。
何が原因だったのか、すべてを説明できるわけではない。
それでも、叔母が苦しんでいる姿を見たことは、真帆の中に確かに残っている。
だから、知りたいと思った。
自分の体について。
自分が選ぶことについて。
そして、選ぶということが、誰かとの関係の中でどんな意味を持つのかについて。
誰かの心配を無視したいわけではない。
自分の考えだけを正しいと言いたいわけでもない。
由紀が不安になる理由も、少しずつ理解できるようになってきた。
けれど、由紀の不安が本物であることと、真帆がその不安をすべて引き受けなければならないことは、別の話ではないだろうか。
真帆は、暗い天井を見つめた。
人は、誰かを大切に思うからこそ、その人に自分と同じ選択をしてほしくなることがある。
自分が選んだ道が正しいと思いたいとき。
大切な人にも同じ道を歩いてほしいと思うとき。
相手が違う道を選ぼうとすると、不安になる。
もしかしたら、間違っているのではないか。
もしかしたら、危険なのではないか。
もしかしたら、自分が何かを見落としているのではないか。
そんな不安が、心の中に生まれる。
そして、その不安を消したくて、相手に言葉を重ねてしまう。
あなたのためを思って。
あなたが心配だから。
あなたに何かあったら嫌だから。
どれも、嘘ではないのだろう。
けれど、その言葉を受け取る側には、別の問いが生まれることがある。
――あなたを安心させるために、私は自分の考えを変えなければならないの?
真帆は、目を閉じた。
まだ、由紀にその問いをぶつけることはできない。
由紀を傷つけたいわけではないから。
できれば、これからも仲よくしていたいから。
けれど、自分の中に生まれた疑問まで、なかったことにはしたくなかった。
心配することと、相手を思いどおりに動かすこと。
思いやることと、相手の選択を引き受けること。
その境目は、どこにあるのだろう。
そして、誰かのためを思って口にした言葉が、相手を苦しめているとしたら。
そのことに、人はいつ気づくのだろう。
真帆は、まだ答えを持っていなかった。
ただ、ひとつだけ、以前とは違うことがあった。
自分が感じている苦しさを、すべて自分のわがままだと思わなくなったこと。
相手の善意を認めることと、自分の気持ちを押し殺すことは、同じではない。
そのことを、少しずつ理解し始めていた。
窓の外では、夜の街が静かに光っていた。
明日も、いつもの朝が来る。
由紀と顔を合わせ、仕事をし、昼休みには何気ない話をするだろう。
何も変わらないように見えるかもしれない。
けれど、真帆の中には、ひとつの問いが残っていた。
善意は、いつから圧力に変わるのだろう。
そして、その変化に、私たちは気づくことができるのだろうか。




