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『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』<< Atonement >>  作者: 東曌


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第二話 叔母が寝込んだ日々

第二話 叔母が寝込んだ日々


 叔母が寝込んだのは、春の終わりだった。


 窓の外では、若葉が風に揺れていた。


 真帆は、その季節のことを、今でも妙にはっきり覚えている。


 カーテンの隙間から差し込んでいた午後の日差し。テーブルの上に置かれた、飲みかけの麦茶。冷蔵庫のモーターが低く唸る音。そして、いつもなら家の中を忙しそうに動き回っている叔母が、寝室の布団から起き上がれずにいたこと。


「ごめんね、真帆。せっかく来てくれたのに」


 叔母は、申し訳なさそうに笑った。


「何言ってるの。寝てていいよ」


 そう答えながら、真帆は枕元の水を取り替えた。


 叔母は、真帆が幼い頃から、母親のように気にかけてくれた人だった。


 進学で迷ったときも、就職活動で落ち込んだときも、叔母はいつも同じように言った。


「自分で考えて、自分で決めなさい。でも、ひとりで抱え込まなくていいんだからね」


 その言葉を、真帆は何度も聞いてきた。


 だからこそ、布団の中で小さく息をつく叔母の姿は、見慣れた人の、見慣れない姿だった。


 数日で回復するだろう。


 最初は、そう思っていた。


 けれど、一週間が過ぎても、叔母の体調はなかなか戻らなかった。


 二週間が過ぎた。


 さらに日が経った。


 食事を用意しても、あまり箸が進まない。少し起き上がっただけで疲れてしまう。以前なら笑い飛ばしていたようなことにも、力なく首を振る。


 真帆は、叔母の代わりに買い物をし、洗濯物を畳み、必要なものを届けた。


 病院で相談し、体調の変化を確かめ、できることを一つずつ続けた。


 それでも、以前の叔母に戻るまでには、ひと月以上かかった。


 原因について、真帆には断定できることがなかった。


 何が体調を崩すきっかけになったのか。いくつもの要因が重なったのか。それとも、本人にもすぐには説明できない事情があったのか。


 真帆は医師ではない。


 目の前で起きたことと、その原因を、自分の想像だけで結びつけるわけにはいかなかった。


 それは、わかっていた。


 わかっていたけれど。


 叔母が寝込んでいた日々のことを思い出すと、胸の奥に、言葉にならない不安がよみがえった。


 人の体は、思っていたよりも複雑なのかもしれない。


 自分が知っていることは、思っていたよりも少ないのかもしれない。


 そして、わからないことがあるとき、人は何を頼りに判断すればいいのだろう。


 真帆は、その問いを、胸の片隅にしまい込んだまま暮らしていた。


     *


 コロナ禍が始まってから、世の中の会話には、以前とは違う言葉が増えた。


 感染者数。


 重症化リスク。


 医療の逼迫。


 予防。


 安全。


 責任。


 テレビをつければ専門家が説明し、ニュースは日々の数字を伝え、インターネットにはさまざまな意見が流れていた。


 人々は、できるだけ正しい情報を得ようとしていた。


 それは、当然のことだった。


 目に見えないウイルスへの不安があった。自分が感染することへの恐怖があった。家族や友人、大切な人にうつしてしまうかもしれないという心配もあった。


 だから、ワクチンという言葉が日常の中に広がっていったとき、真帆も、その意味を知りたいと思った。


 自分にとって、どのような利益があるのか。


 どのようなリスクが考えられるのか。


 接種によって期待できることと、接種しても残るリスクは何なのか。


 自分の年齢や体調、生活環境を踏まえると、どう考えればいいのか。


 そして、わからないことがあれば、誰に尋ねればいいのか。


 真帆は、ひとつずつ調べ始めた。


 厚生労働省の情報を読む。


 公的機関が公表している説明に目を通す。


 医療に関する記事を読む。


 専門用語がわからなければ、その言葉の意味を調べる。


 ある説明を読んで納得したかと思えば、別の説明に出会い、また考え込む。


 ひとつの情報だけですべてを判断することはできなかった。


 情報が多ければ多いほど、簡単に答えが出るわけでもなかった。


 ときには、読んでいるうちに不安が増すこともあった。


 反対に、最初は怖いと思った情報が、詳しく読むと自分の理解とは違っていたこともあった。


 真帆は、画面を閉じて、深く息をついた。


 調べるというのは、思っていたより疲れることだった。


 誰かが「これが正解です」と言ってくれれば、どれほど楽だろう。


 そう思うこともあった。


 けれど、誰かの言葉をそのまま受け取るだけで、本当に自分が納得したことになるのだろうか。


 真帆には、それもわからなかった。


     *


 ある夜、真帆は叔母に電話をかけた。


「具合、どう?」


『うん。前よりはずっといいよ。まだ疲れやすいけどね』


「無理しないでね」


『わかってる。真帆のほうこそ、ちゃんと食べてる?』


 叔母は、体調を崩してからも、相変わらずだった。


 自分のことより、真帆の生活を心配する。


「食べてるよ」


『本当かなあ。あんた、仕事が忙しいとすぐ適当になるから』


「大丈夫だって」


 真帆は笑った。


 しばらく、他愛のない話をした。


 近所に新しい店ができたこと。叔母が元気になったら食べたいもの。テレビで見た旅行先のこと。


 そして、電話を切ろうとしたときだった。


「ねえ、叔母さん」


『なあに?』


「体調を崩したときのこと、覚えてる?」


 電話の向こうで、少し間が空いた。


『覚えてるよ。そりゃあね。あのときは、しんどかったもの』


「そっか……」


 真帆は、次の言葉を探した。


 聞きたいことはあった。


 けれど、それをどう尋ねればいいのか、わからなかった。


 叔母の体調が悪くなったことについて、自分なりに考えたことがある。


 しかし、それを口にすれば、叔母を不安にさせるかもしれない。


 反対に、何も尋ねなければ、自分の中に残っている疑問は、そのままだ。


「どうしたの、真帆?」


「ううん。なんでもない」


 真帆は、そう答えた。


 叔母に余計な心配をかけたくなかった。


 その気持ちは、本当だった。


 けれど、電話を切ったあと、真帆は自分の答えに、少しだけ引っかかりを覚えた。


 聞きたいことがあるのに、聞かなかった。


 それは、相手を思いやったからだろうか。


 それとも、自分が聞くことを怖がったからだろうか。


 真帆には、まだ区別がつかなかった。


     *


 数日後、会社の昼休み。


 由紀が、スマートフォンを片手に真帆の向かいへ座った。


「予約、取れたんだ」


「何の?」


「ワクチン。次の接種の予約」


 由紀は、ほっとしたような顔で画面を見せた。


「これで少し安心かな。親も高齢だし、できることはしておきたいから」


「そっか」


 真帆はうなずいた。


 由紀がそう考えることは、よくわかった。


 自分の家族を守りたい。


 できることがあるなら、しておきたい。


 その思いに、真帆は反対する理由などなかった。


「真帆は?」


 由紀が尋ねた。


「私は、まだ考えてる」


「まだ?」


 由紀の声が、ほんの少し高くなった。


「うん。情報を調べたりしてるところ」


「そうなんだ……」


 由紀はスマートフォンを置いた。


 その表情に、わずかな戸惑いが浮かんだ。


「でもさ、こういうのって、やっぱり打ったほうがいいんじゃないの?」


「うん。そういう考えがあることはわかってるよ」


「じゃあ、なんで迷ってるの?」


 真帆は、箸を置いた。


 叔母が寝込んでいた日々のことが、ふと頭をよぎった。


 あのとき、自分は何もわからなかった。


 何が起きているのかも、いつ元気になるのかも、はっきりとはわからなかった。


 ただ、目の前の人が苦しんでいることだけは、確かだった。


 だからこそ、自分の体に関わることについては、できるだけ理解してから決めたかった。


「自分の体のことだから、ちゃんと納得して決めたいんだ」


 真帆は、そう答えた。


 由紀は、しばらく黙っていた。


 やがて、困ったように笑った。


「真帆って、慎重だね」


「そうかな」


「うん。私は、そこまで考えなかったな。みんな打ってるし、打つものなんだと思ってた」


 みんな打ってるし。


 打つものなんだと思ってた。


 由紀は、ごく自然にそう言った。


 その声に、意地悪さはなかった。


 真帆を困らせようという気持ちも、たぶんなかった。


 ただ、由紀にとっては、それが判断するためのひとつの手がかりだったのだろう。


 多くの人が選んでいる。


 周囲の人も選んでいる。


 だから、自分も選ぶ。


 それは、必ずしもおかしなことではない。


 人はいつだって、周囲の人の行動を参考にしながら暮らしている。


 どの店に入るか。


 どの道を通るか。


 何を買うか。


 知らないことを判断するとき、他人の経験が助けになることもある。


 けれど。


 他人が選んだという事実と、自分が納得できるということは、同じなのだろうか。


 真帆は、その疑問を口にしなかった。


 由紀の言葉を否定したかったわけではない。


 ただ、自分の中にあるものを、まだうまく説明できなかったのだ。


「まあ、もう少し考えてみるよ」


 真帆は言った。


「うん。でも、あんまり考えすぎないほうがいいよ」


 由紀は笑った。


「心配しすぎても、疲れちゃうからさ」


「そうだね」


 真帆も笑った。


 会話は、そこで終わった。


 午後の仕事が始まり、二人はそれぞれの席へ戻った。


 いつもの日常だった。


 それなのに、真帆の胸の中には、小さな棘のようなものが残っていた。


     *


 帰宅してから、真帆は叔母に買い物を届けた。


 叔母は、以前よりもずっと元気になっていた。


 台所に立ち、夕食の準備をしている。


「もう、そんなに動いて大丈夫なの?」


「大丈夫、大丈夫。いつまでも寝ていられないからね」


 叔母は笑った。


 その姿を見て、真帆は心からほっとした。


 人は回復する。


 時間をかけて、少しずつ元気を取り戻すこともある。


 けれど、その過程を間近で見ていた真帆には、以前と同じように考えられないこともあった。


 健康でいることは、当たり前ではない。


 自分の体について知ろうとすることは、大切だ。


 同時に、どれほど調べても、すべてがわかるわけではない。


 だからこそ、わからないことをわからないままにせず、必要なら専門家に尋ね、根拠を確かめ、考え続けたい。


 真帆は、それだけだった。


 誰かの選択を否定したいわけではない。


 自分の考えを、ほかの人に押しつけたいわけでもない。


 ただ、自分が選ぶことについて、自分の言葉で説明できるくらいには理解したかった。


 その夜、真帆はノートを開いた。


 調べたいことを、ひとつずつ書き出していく。


 期待できる効果。


 考えられる副反応やリスク。


 接種しても残る感染のリスク。


 自分の体調や状況について、医療従事者に確認したいこと。


 書き終えると、ノートにはいくつもの項目が並んでいた。


 それを見て、真帆は小さく息をついた。


 すぐには決められないかもしれない。


 調べた結果、最初に思っていたことが変わるかもしれない。


 それでもいいと思った。


 考えることは、決めないことと同じではない。


 迷うことは、誰かを拒絶することでもない。


 疑問を持つことは、すべてを否定することでもない。


 真帆はノートの最後に、一行を書き加えた。


 ――私は、何を根拠に、自分の選択を決めるのだろう。


 ペンを置き、窓の外を見た。


 街の明かりが、いくつも並んでいた。


 そのひとつひとつの窓の向こうに、誰かの暮らしがある。


 家族を心配する人。


 感染を恐れる人。


 情報を集めている人。


 周囲に合わせている人。


 周囲に合わせることに、安心している人。


 そして、みんなと同じ選択をしているように見えながら、胸の中では迷っている人も、いるのかもしれない。


 真帆には、まだわからなかった。


 ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。


 叔母が寝込んでいた日々に、真帆は何度も願った。


 どうか、元気になってほしい。


 どうか、苦しみが終わってほしい。


 その願いに、正しさも、間違いもなかった。


 大切な人を心配すること。


 わからないことを恐れること。


 できるだけ安全な道を選びたいと思うこと。


 それらは、誰にでもある、ごく自然な気持ちだった。


 けれど、その自然な気持ちが、いつか誰かの選択を決めつける言葉に変わるとしたら。


 善意の言葉が、相手の口を閉ざすものになってしまうとしたら。


 その境目は、どこにあるのだろう。


 真帆は、まだ答えを持っていなかった。


 ノートを閉じ、部屋の明かりを消した。


 暗くなった窓に、自分の顔がぼんやりと映った。


 明日になれば、また会社へ行く。


 由紀と話すだろう。


 ほかの同僚とも、いつものように言葉を交わすだろう。


 そして、いつかまた、聞かれるのかもしれない。


 ――どうして、みんなと同じにしないの?


 そのとき、自分は何と答えるのだろう。


 真帆は、暗闇の中で目を閉じた。


 まだ、うまく答えられそうになかった。


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