第一話 みんな、打つのが当たり前 改訂版
本作『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』は、アーサー・ミラーの戯曲『るつぼ(The Crucible)』に着想を得た、オマージュ作品です。
『るつぼ』が描いたのは、恐怖に包まれた共同体の中で、人々が互いを疑い、異なる声を排除し、いつしか集団そのものが個人を追い詰めていく姿でした。
本作では、その人間社会の構造を、コロナ禍という時代を背景に描きます。
ただし、本作は、ワクチンを接種した人、接種しなかった人、そのどちらかを一方的に批判するための物語ではありません。
感染を恐れることも、大切な人を守りたいと願うことも、わからないことについて調べ、自分なりに考えようとすることも、人間として自然なことです。
人には、それぞれの事情があり、それぞれの不安があります。
本作が問いかけたいのは、特定の選択が正しかったかどうかだけではありません。
恐怖や不安が社会を覆ったとき、私たちは、いつから「みんなと同じであること」を「正しいこと」と考えるようになるのでしょうか。
疑問を口にした人を、私たちはいつから、疑わしい人として見るようになるのでしょうか。
そして、誰もが「みんなはそう思っている」と信じているとき、本当に全員が同じことを考えているのでしょうか。
これは、誰かを悪者にするための物語ではありません。
あの時代を生きた人々を、あとから裁くための物語でもありません。
恐怖の中で、私たち自身の心に何が起きていたのか。
善意は、いつから圧力に変わるのか。
沈黙は、本当に賛成を意味するのか。
そして、自分と異なる選択をした人を、私たちはどこまで尊重できるのか。
そのことを、ひとりの女性の日常を通して考えてみたいと思います。
「みんなって、誰なんだろう。」
その問いを、読者の皆さんと一緒に考えられたら幸いです。
第一話 みんな、打つのが当たり前
「えっ。真帆、まだ打ってないの?」
その声は、驚きから生まれたものだった。
少なくとも、佐伯由紀には、相手を責めようというつもりはなかった。
昼休みの休憩室。窓際のテーブルには、コンビニ弁当やサンドイッチが並んでいた。電子レンジが短く音を立て、給湯室ではコーヒーの香りが漂っている。
いつもと同じ昼休みだった。
水野真帆は、おにぎりを持ったまま、向かいに座る由紀を見た。
「うん。まだ決めていないんだ」
「どうして?」
由紀は、ペットボトルのお茶を置いた。
真帆は答えようとした。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
どうして。
たった三文字の質問だった。
接種する人がいて、しない人がいて、迷っている人もいる。そういうものだと思っていた。
自分がまだ決めていないと伝えれば、それで終わる話だと思っていた。
「もう少し、自分で調べてから決めたいと思って」
真帆は言った。
「調べるって?」
「効果とか、副反応とか。いろいろ確認して、自分で納得してから決めたいんだ」
由紀は、少しだけ首を傾げた。
「でも、もうみんな打ってるよね?」
そのとき、隣のテーブルにいた女性社員が顔を上げた。
「えっ、真帆ちゃん、まだなの?」
「うん」
「私はもう一回目、終わったよ。腕が痛くなったけど、まあ、大丈夫だった」
「私も来週なの。予約、やっと取れたんだよね」
別の社員が会話に加わった。
「うちの母親も、早く打ちたいって言ってたよ」
「やっぱり、打てるなら打ったほうが安心だよね」
話題が広がった。
誰かが話を始めたわけでもないのに、いつの間にか、テーブルの周囲にいる人たちの関心が真帆に集まっていた。
真帆は、おにぎりの包装を丸めた。
自分は、何か特別なことを言ったのだろうか。
ただ、まだ決めていないと言っただけだった。
接種した人に、どうして打ったのかと問い詰めたわけではない。
打たないほうがいいと主張したわけでもない。
誰かの選択を批判したつもりもなかった。
それなのに、気がつくと、自分のほうが説明を求められていた。
「真帆は、ワクチンが怖いの?」
女性社員が尋ねた。
「怖いというか、ちゃんと理解してから決めたいっていうか……」
「でも、ネットって変な情報も多いからね」
「そうそう。あんまり気にしすぎてもよくないよ」
二人は、真帆を心配するような表情で言った。
悪意はなかった。
少なくとも、真帆にはそう見えた。
心配してくれているのだろう。
自分が不確かな情報に惑わされないように、親切に教えてくれているのかもしれない。
それでも、真帆は違和感を覚えた。
まだ、自分は何も信じていない。
何かを危険だと断定したわけでもない。
ただ、知りたいと思っている。
それなのに、質問をする前から、自分は何か間違った情報を信じている人間として扱われかけていた。
「私、別に打つ人を否定しているわけじゃないよ」
真帆は言った。
少しだけ、声が硬くなっていた。
「うん。わかってるよ」
由紀が答えた。
「でもさ、感染したら大変じゃない?」
「そうだね」
「自分が重症化するかもしれないし、家族にうつすかもしれないし」
「うん」
「職場だって、みんなで気をつけなきゃいけないでしょ?」
真帆は頷いた。
もちろん、それはわかっている。
新型コロナウイルスが人々の生活を変えてから、ずっと気をつけてきた。
手を洗う。マスクを着ける。体調に気を配る。人との距離を考える。
自分だけが無事ならいいなどと、思ったことはない。
家族も、友人も、職場の同僚も、健康でいてほしい。
由紀が何を心配しているのか、真帆にはわかっていた。
だからこそ、話し合えると思っていた。
何がわかっていて、何がまだわからないのか。
何を心配していて、どんな情報を必要としているのか。
それぞれの考えを話すことはできるはずだった。
ところが、由紀は真帆の答えを待たずに言った。
「だったら、打ったほうがいいんじゃない?」
真帆は黙った。
その瞬間、少し離れた席に座っていた高橋修が、ちらりと顔を上げた。
彼は何か言いかけたように見えた。
けれど、すぐに視線を弁当に戻した。
真帆は、それに気づかなかった。
「ねえ、真帆」
由紀が続けた。
「周りに感染させたら、どうするの?」
その言葉が、テーブルの上に置かれた。
誰も、すぐには何も言わなかった。
電子レンジが鳴った。
給湯室で、カップを置く音がした。
窓の外を、配送トラックが通り過ぎていった。
いつもと同じ音がしているのに、真帆には、さっきまでの休憩室とは違う場所に来てしまったような気がした。
「……私だって、感染対策はするよ」
ようやく、それだけ言った。
「うん。もちろん、そうだと思うよ」
由紀は言った。
「でも、できることはしたほうがいいじゃない」
真帆は、由紀の顔を見た。
由紀は本気だった。
真帆を困らせて楽しんでいるわけではない。
感染が怖いのだ。
家族を守りたいのだ。
職場の人たちにも、無事でいてほしいのだ。
その気持ちは、真帆にもわかった。
だから、反論しづらかった。
相手が悪意を持っているなら、怒ることもできたかもしれない。
けれど、相手は善意で言っている。
あなたを心配している。
みんなのことを考えている。
そう言われると、疑問を口にする自分のほうが、思いやりのない人間のように思えてくる。
「みんな打つのが当たり前、ってこと?」
真帆は、なるべく静かに尋ねた。
由紀は一瞬、言葉に詰まった。
「いや、そういうことじゃないけど……」
そう答えてから、少し考えるような顔をした。
「でも、みんなのためにも、打てるなら打ったほうがいいと思うよ」
真帆は、それ以上何も言わなかった。
由紀も、それ以上は言わなかった。
周囲の人たちは、また別の話題を始めた。
予約が取れた会場のこと。
接種後に仕事を休む場合のこと。
家族が何回目の接種を終えたかということ。
話題は自然に戻った。
誰かが怒鳴ったわけではない。
誰かが真帆を追い出したわけでもない。
それなのに、真帆は、さっきまで自分が座っていた場所に、もう同じ気持ちでは座れないような感覚を覚えていた。
*
午後の仕事は、いつもどおりに進んだ。
真帆はメールを返し、書類を確認し、取引先からの電話に応対した。
由紀も、普段と変わらなかった。
廊下ですれ違えば、いつものように挨拶をした。
給湯室では、週末の買い物の話をした。
誰も、昼休みのことを蒸し返さなかった。
それなのに、真帆は、同僚たちの何気ない仕草が気になり始めていた。
自分が近づいたとき、会話が途切れた気がする。
誰かと目が合うと、相手が一瞬だけ視線をそらした気がする。
気のせいかもしれない。
実際には、誰も自分のことなど気にしていないのかもしれない。
それでも、一度気になり始めると、何でも意味のある出来事のように見えてしまう。
真帆は、そんな自分が嫌だった。
誰かを疑いたいわけではない。
職場の人たちと、これまでどおりに働きたいだけだった。
けれど、自分が周囲と違う選択をしようとしていると知られた途端、何かが変わってしまった。
その「何か」を、うまく説明することができなかった。
午後三時過ぎ、給湯室で高橋と顔を合わせた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
高橋は紙コップを手にしていた。
真帆が給湯器の前に立つと、彼は何かを言いかけた。
「あのさ、水野さん」
「はい?」
「昼休みの……」
そこで、言葉が止まった。
高橋は、真帆の顔を見たあと、給湯室の入口に目を向けた。
誰もいなかった。
それでも彼は、声を少し落とした。
「いや。なんでもない」
「そうですか」
「うん。仕事、忙しいよね」
高橋は笑って、先に出ていった。
真帆は、給湯器から落ちるお湯を見つめた。
高橋は、何を言おうとしたのだろう。
由紀の言い方が強すぎると思ったのだろうか。
それとも、真帆の考えに何か言いたいことがあったのだろうか。
聞けばよかったのかもしれない。
けれど、真帆は聞かなかった。
相手が話したくないことを、無理に尋ねるのも違う気がした。
そのまま紙コップを持って、デスクに戻った。
このときの真帆には、まだわからなかった。
高橋が口を閉じた理由も。
由紀があれほど強く接種を勧めた理由も。
そして、自分が感じ始めた居心地の悪さが、誰かひとりの意図によって生まれたものではないということも。
*
退勤時間が近づいたころ、由紀が真帆のデスクにやってきた。
「真帆、今日、駅前のスーパー寄る?」
「うん。寄るつもりだけど」
「じゃあ、一緒に行こうよ。卵が安いんだって」
由紀は笑った。
いつもの笑顔だった。
真帆は、少しほっとした。
昼休みのことは、由紀にとっては、もう終わった話なのかもしれない。
心配だから、言った。
それだけなのだろう。
「いいよ。一緒に行こう」
二人は会社を出て、駅前のスーパーへ向かった。
歩きながら、由紀は母親の話をした。
「うちの母、来週、二回目なんだ」
「そうなんだ」
「一回目は腕が痛かったらしいけど、今は元気。やっぱり、打てると安心するみたい」
由紀は、少しだけ声を和らげた。
「親が高齢だと、やっぱり心配だからね」
「うん。そうだよね」
真帆は頷いた。
由紀の母親を心配する気持ちは、本物なのだろう。
大切な人に元気でいてほしい。
できるだけのことをして、守りたい。
その思いを、真帆は否定したくなかった。
けれど、同じ思いを持っていても、同じ結論になるとは限らない。
それだけのことが、どうして、こんなに難しいのだろう。
スーパーに着くと、由紀は特売の卵をかごに入れた。
真帆は豆腐と納豆を選んだ。
二人はレジに並び、会計を済ませた。
「じゃあ、また明日ね」
駅前で、由紀が手を振った。
「うん。また明日」
由紀は改札へ向かっていった。
真帆は、その背中を見送った。
由紀は、きっと明日も、いつもどおりに話しかけてくるだろう。
仕事の相談もするだろうし、昼休みには、また何かおいしい店の話をするかもしれない。
そうであってほしいと思った。
由紀を嫌いになりたいわけではなかった。
ただ、ひとつだけ、気になっていることがあった。
昼休み、由紀は言った。
「みんな打つのが当たり前」
でも、本当にそうなのだろうか。
誰もが、同じように考えているのだろうか。
同じように不安を感じ、同じように情報を集め、同じように納得して、同じ答えにたどり着いたのだろうか。
真帆は、駅前の人の流れを見つめた。
歩いている人たちは、それぞれ違う方向へ向かっていた。
家族がいる人。
仕事に戻る人。
買い物をする人。
誰かを待っている人。
ひとりひとり、事情が違う。
考え方も、心配していることも、きっと違う。
それなのに、ひとつの大きな「みんな」という言葉で、その違いを覆い隠してしまっていいのだろうか。
真帆は、スマートフォンを取り出した。
画面には、ワクチンに関する記事がいくつも並んでいた。
効果について説明するもの。
副反応について説明するもの。
公的機関による情報。
専門家の見解。
どれを読めばいいのか。
何を確認すれば、自分は納得できるのか。
まだ、わからないことは多かった。
それでも、考えることをやめたくはなかった。
誰かと同じ結論になるためではない。
誰かと違う結論を出すためでもない。
自分の体のことを、自分の言葉で考えたかった。
そして、もし誰かが自分とは違う選択をしたなら、その人にも、その人なりの事情があるかもしれないと考えられる人間でいたかった。
真帆はスマートフォンをしまい、駅へ向かって歩き始めた。
その日の昼休み、真帆は、誰かから明確に拒絶されたわけではなかった。
誰かに命令されたわけでもない。
誰かに、接種しなければ会社にいられないと言われたわけでもなかった。
ただ、みんなと違う答えを持っているかもしれないと口にしただけだった。
それなのに、説明しなければならない気がした。
理解してもらわなければならない気がした。
自分が、無責任な人間ではないことを証明しなければならない気がした。
真帆は、ふと足を止めた。
本当に怖かったのは、ワクチンについて、まだわからないことがあるという事実だけだったのだろうか。
それとも。
わからないと言っただけで、周囲から違う人間として見られてしまうことだったのだろうか。
真帆は、まだ答えを出せなかった。
ただ、昼休みに聞いた言葉が、頭から離れなかった。
「みんな打つのが当たり前」
みんな。
その言葉は、あまりにも簡単に口にできる。
けれど、その中に誰がいて、誰がいないのか。
誰が本当に賛成していて、誰が黙っているだけなのか。
誰にも、確かめられていなかった。
そして、もしかしたら。
誰も確かめようとしていなかった。
真帆は、駅の階段を下りた。
明日も、同じ職場へ行く。
同じ人たちと働き、同じ休憩室で昼食を取る。
何も変わらない日常が続くはずだった。
けれど、真帆の中には、ひとつの問いが残った。
――みんなって、誰なんだろう。
その問いを、声に出すことはできなかった。
まだ、声に出すほどの勇気がなかった。
そして真帆は、まだ知らなかった。
自分と同じように、声に出せずにいる人が、ほかにもいるかもしれないということを。




