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『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』<< Atonement >>  作者: 東曌


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プロローグ 海の上の船

登場人物


1. 水野真帆(みずの・まほ)――主人公


三十四歳。会社員。慎重で、他人に迷惑をかけたくないと思っている。ワクチン接種について自分なりに考え、接種しないと決める。しかし、その選択を周囲に説明するうち、自分の判断だけでなく、人間性まで疑われるようになる。


2. 佐伯由紀(さえき・ゆき)――親友で同僚


真帆と同じ職場で働く。接種を選び、感染から家族を守りたいと考えている。真帆を心配して接種を勧めるが、いつしか「心配しているのだから、わかってくれるはず」と、相手の意思を尊重できなくなる。


3. 黒田課長――職場の管理職


職場の安全と業務の継続を重視する。露骨に命令はしないが、「皆さん、ご協力をお願いします」という言葉で、事実上の同調を求める。自分は圧力をかけているつもりがない。


4. 水野澄江――真帆の叔母


真帆にとって身近な存在。コロナ禍で長く寝込んだ経験があり、真帆の判断に影響を与えている。ただし、寝込んだ原因は物語の中でも安易に断定せず、真帆の不安と記憶の出発点として描く。


5. 高橋修――沈黙する同僚


接種を済ませているが、真帆を責めることには違和感を覚えている。けれど、職場で波風を立てたくなくて黙っている。彼の沈黙が、物語の後半で重要な意味を持つ。

『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』


プロローグ 海の上の船


二〇二〇年二月。


横浜の港に、一隻の大型客船が停泊していた。


ダイヤモンド・プリンセス号。


船体は、いつもと変わらず、海の上に浮かんでいた。


白い船体。整然と並んだ客室。遠くから見れば、豪華な船旅のための美しい船だった。


けれど、その船の中では、人々が目に見えない何かを恐れていた。


新型コロナウイルス。


ニュースは、繰り返し船の映像を映した。


感染者数が報じられた。


検査の結果が報じられた。


乗客や乗員の状況が伝えられた。


数字は日ごとに変わった。


昨日より増えた。


今日も増えた。


明日は、どうなるのだろう。


テレビの前に座る人々は、画面を見つめた。


まだ、ワクチンはなかった。


ウイルスについてわかっていないことも多かった。


人々は、何をすれば安全なのか、どこまで気をつければよいのか、確かな答えを求めていた。


真帆も、そのひとりだった。


当時、彼女はまだ三十歳になる前の会社員だった。


仕事から帰ると、夕食をとりながらニュースを見る。


船の映像が流れる。


専門家が説明する。


アナウンサーが感染者数を読み上げる。


真帆は、箸を持つ手を止めた。


「怖いね……」


母が言った。


「うん」


真帆は答えた。


それ以上、何を言えばよいのかわからなかった。


感染することが怖かった。


家族が感染することも怖かった。


知らないうちに誰かにうつしてしまうことも、怖かった。


その恐怖は、特別なものではなかった。


多くの人が、同じように感じていた。


だから、人々は情報を求めた。


どうすれば感染を防げるのか。


何をすれば家族を守れるのか。


どんな行動が正しいのか。


やがて、マスクをする人が増えた。


手を洗う人が増えた。


人との距離を気にする人が増えた。


誰もが、できることをしようとした。


それは、ごく自然なことだった。


けれど、社会の中に、もうひとつの変化が生まれ始めていた。


人々は、感染を防ぐ方法だけでなく、ほかの人が何をしているのかも気にするようになった。


あの人はマスクをしている。


あの人はしていない。


あの店は対策をしている。


あの店は、どうなのだろう。


正しい行動をすること。


周囲から、正しい行動をしていると思われること。


その二つの境目が、少しずつ曖昧になっていった。


もちろん、誰もが他人を監視しようとしていたわけではない。


感染を広げたくなかった。


大切な人を守りたかった。


医療現場の負担を減らしたかった。


その願いには、理由があった。


しかし、恐怖が強くなるほど、人は安心を求める。


そして、安心を得るために、周囲と同じ行動を選ぶことがある。


みんながしているから、自分もする。


みんなが避けているから、自分も避ける。


みんなが正しいと言っているから、きっと正しいのだろう。


その考え方は、いつも間違っているわけではない。


人は、ほかの人の経験や知識を参考にして生きている。


けれど。


もし、みんなが同じ方向を向いていたら。


その方向が本当に正しいのか、誰が確かめるのだろう。


もし、疑問を口にした人が、周囲から責められるようになったら。


その人は、次も質問できるだろうか。


そして、誰も質問しなくなったとき。


その静けさを、私たちは「みんなが納得した証拠」だと思ってしまわないだろうか。


真帆は、その頃、まだそんなことを深く考えてはいなかった。


目の前にある不安を、どうにかやり過ごそうとしていただけだった。


それから月日が流れた。


感染症は社会の暮らしを変え、人々は新しい情報に触れ、さまざまな対策を経験した。


そして、ワクチン接種が始まった。


接種を待ち望む人がいた。


接種によって大切な人を守りたいと考える人がいた。


副反応を心配する人もいた。


接種について、もっと知りたい人もいた。


人々の考えは、ひとつではなかった。


本来なら、その違いを抱えたまま、互いに話すこともできたはずだった。


けれど、ある日。


真帆は、会社の昼休みに、ひとつの質問を受けることになる。


悪意のない、ほんの短い質問だった。


その場にいた誰もが、普通の会話だと思っていた。


真帆だけが、答えに困った。


そして、その質問をきっかけに、彼女は初めて気づくことになる。


自分が何を選ぶかという問題と。


何を選べば、周囲から責められずに済むのかという問題は、いつの間にか別のものになっていた。


その日、同僚の由紀が言った。


「えっ。真帆、まだ打ってないの?」

コロナ禍の、あの頃、私たちは何を恐れていたのだろう。

ウイルスだったのか。それとも、みんなと違う人になることだったのか。

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