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『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』<< Atonement >>  作者: 東曌


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第10話 人心を、乞う人たち

第10話 人心を、乞う人たち


## 1 画面の向こう側


小野寺玲奈が、自宅から会社のWebミーティングに参加するようになって、二週間以上が過ぎていた。


熱は下がっていた。


身体のだるさも、少しずつ薄れてきた。


けれど、コーヒーの香りは、まだ以前のようには感じられなかった。食事をしても、味が遠い。甘い、苦い、しょっぱい。そうした感覚はあるのに、食べ物が持っていたはずの豊かな味わいが、どこかへ隠れてしまったようだった。


朝、玲奈はコーヒーを淹れた。


いつもなら、湯気とともに立ち上る香りを楽しむ。


けれど、今日は違った。


カップを両手で包み、ひと口飲む。


温かい。


それはわかる。


でも、いつものコーヒーではない気がした。


玲奈はカップを置き、ノートパソコンを開いた。


画面には、社内ミーティングの参加者が次々と表示されていく。


黒田課長。

佐伯由紀。

高橋修。

水野真帆。


真帆の顔が、画面の一角に現れた。


玲奈は、思わず姿勢を正した。


同じ会社に勤めているのに、真帆と直接顔を合わせることは、しばらくなかった。


以前なら、廊下ですれ違うことも、給湯室で言葉を交わすこともできた。


話したいことがあれば、相手の様子を見ながら声をかけることもできた。


今は、画面の中にいる。


話しかけるには、マイクをオンにして、相手の名前を呼ばなければならない。


それだけのことなのに、玲奈には、以前よりも遠く感じられた。


「それでは、始めましょうか」


黒田課長の声が、スピーカーから流れた。


「本日は、今後の勤務体制と、感染対策について確認したいと思います。体調に不安がある場合は、無理をせず、早めに相談してください。情報を共有するときは、確認できている事実と、個人の推測を分けるようにお願いします」


玲奈は、画面の中の黒田を見た。


その言葉は、特定の誰かを責めるものではなかった。


それでも、玲奈には、自分に向けられた言葉のようにも聞こえた。


自分は、事実と推測を、きちんと分けていただろうか。


真帆が何を考えているのか、本人に確かめる前に、周囲への影響を想像していなかっただろうか。


その想像を、いつの間にか、確かなことのように扱っていなかっただろうか。


「それから」


黒田が続けた。


「在宅勤務が増えると、相手の状況が見えにくくなります。反応がないからといって、理解していないとは限りませんし、反対がないからといって、全員が同意しているとも限りません。その点も、意識しておいてください」


玲奈は、画面の端に並んだ参加者の顔を見た。


何人かがうなずいていた。


高橋は、少し下を向いていた。


真帆は、静かに画面を見つめていた。


誰が何を考えているのか。


玲奈には、わからなかった。


以前なら、うなずく人が多ければ、安心したかもしれない。


誰も反対しなければ、自分の考えは受け入れられたのだと思ったかもしれない。


けれど今は、その沈黙の意味を、簡単には決められなかった。


画面に映っている顔だけでは、わからないことがある。


そのことを、玲奈はようやく実感し始めていた。


## 2 みんなの認識


感染対策についての確認が終わると、話題は今後の勤務体制に移った。


出社する日と在宅勤務の日をどう組み合わせるか。オンラインでの打ち合わせを、どこまで標準化するか。家庭の事情や業務の性質に応じて、どのような働き方が可能なのか。


以前なら、同じ場所に集まって話し合うことが当たり前だった。


けれど、今は違う。


通勤時間がなくなり、家族と過ごす時間が増えた人がいる。


一方で、仕事と生活の境目が曖昧になり、かえって疲れを感じる人もいる。


家に仕事をする場所がある人もいれば、そうではない人もいる。


同じ制度を利用していても、置かれた状況は、それぞれ違っていた。


「いろいろ課題はありますが、基本的には、みんな同じ認識だと思います」


ある社員が発言した。


「できるだけ柔軟に働けるようにして、職場全体として協力していく。それが大切ですよね」


「そうですね」


別の社員が答えた。


画面の中で、何人かがうなずいた。


玲奈も、うなずきかけた。


以前の自分なら、その言葉を聞いて安心していたと思う。


みんなが同じ認識なら、きっと大丈夫。


みんなが協力するつもりなら、余計な心配をする必要はない。


そう考えれば、自分の判断を疑わずに済む。


けれど。


「……すみません」


高橋の声が聞こえた。


少し、ためらいがあった。


「ひとつ、いいでしょうか」


黒田がうなずいた。


「どうぞ」


高橋は、一度、画面から目をそらした。


それから、ゆっくりと話し始めた。


「みんな同じ認識、という言い方なんですが……本当にそうなのか、僕にはわからないと思いました」


画面の中の動きが、止まったように見えた。


高橋は続けた。


「在宅勤務が楽だと感じる人もいれば、仕事と生活の切り替えが難しい人もいると思います。感染対策についても、協力することは大切だと思います。でも、何を不安に感じるかまで、みんな同じとは限らないんじゃないでしょうか」


少し間があった。


「僕自身、これまで、思うことがあっても黙っていたことがありました。反対したかったわけではありません。ただ、何か言うことで、場の雰囲気を悪くするんじゃないかと思って……」


高橋は、苦笑した。


「だから、僕が黙っていたことを、賛成していた証拠にはできないと思うんです」


玲奈は、息を止めていた。


高橋が、そんなことを考えていたとは知らなかった。


いや。


知らなかったのではない。


知ろうとしていなかったのかもしれない。


高橋は、いつも穏やかだった。


会議で強く反対することもない。誰かと衝突することもない。


玲奈は、その様子を見て、職場の方針を受け入れているのだと思っていた。


けれど、彼はただ、言葉を飲み込んでいただけだった。


「ありがとうございます」


黒田が言った。


「協力することと、全員が同じ意見であることは、別ですね。意見が違う場合も、必要な対策について話し合い、合意できるところを探していく。それが組織としての仕事だと思います」


誰も、すぐには発言しなかった。


その沈黙を、玲奈は見つめていた。


今度は、その沈黙を賛成とも反対とも決めつけなかった。


ただ、そこに沈黙がある。


それだけだった。


## 3 画面越しの真帆


ミーティングの終盤、黒田が確認した。


「ほかに、何かありますか」


真帆が、マイクをオンにした。


「ひとつ、確認させてください」


玲奈の肩に、わずかに力が入った。


「感染対策について、わからないことがあった場合、個人で調べるだけでなく、職場で質問してもいい、という理解でよろしいでしょうか」


黒田は、すぐに答えた。


「もちろんです。確認できていない情報を事実として広めないことは大切ですが、疑問を持つこと自体を控える必要はありません。必要なら、会社として確認できる情報を整理します」


「ありがとうございます」


真帆は、短く答えた。


それだけだった。


誰かを責める言葉はなかった。


誰かの判断を否定する言葉もなかった。


ただ、自分が理解できていないことを、確認しただけだった。


玲奈は、画面の中の真帆を見つめた。


以前の自分は、真帆の質問が周囲を不安にさせるかもしれないと考えていた。


質問が出れば、誰かが迷うかもしれない。


迷う人が増えれば、職場の足並みが乱れるかもしれない。


だから、できるだけ安心できる言葉を共有したほうがいい。


その考え自体が、すべて間違っていたとは思わない。


人を不安にさせないように配慮することは、大切だ。


誰かの言葉が、別の誰かを傷つけることもある。


けれど、自分はいつから、質問することそのものを、周囲への影響という尺度で測るようになったのだろう。


真帆が質問したあと、誰も反対しなかった。


誰も、真帆を責めなかった。


けれど、それだけで、全員が真帆に賛成していると考えることもできない。


玲奈は、自分が求めていたものに、ようやく気づきかけていた。


真帆を理解したかったのだろうか。


それとも、真帆の考えが自分の考えと違っていても、職場は大丈夫だと、誰かに保証してほしかったのだろうか。


もし後者だったのなら。


自分は、真帆の質問を理解するより先に、自分の不安を解消しようとしていたのかもしれない。


「では、本日はここまでにしましょう」


黒田の声で、玲奈は我に返った。


画面から、ひとり、またひとりと、参加者が消えていった。


真帆の映像も消えた。


玲奈は、しばらく、何も映らなくなった画面を見つめていた。


## 4 変わっていく働き方


午後、玲奈は、仕事の合間に窓を開けた。


外の空気が入ってくる。


遠くで、車の走る音がした。


在宅勤務になってから、会社の中では見えなかったものが、少しずつ見えるようになった気がした。


仕事を終えてから家に帰るのではない。


家の中で、仕事を始め、仕事を終える。


同じ部屋にいても、家族はそれぞれ違う時間を過ごしている。


仕事に集中したいときもあれば、休みたいときもある。


誰かにとって便利な仕組みが、別の誰かにとっても便利とは限らない。


会社が制度を整えれば、それですべて解決するわけではない。


制度の中で働く人たちが、互いの事情を想像し、必要なことを伝え、違いを調整していかなければならない。


玲奈は、ノートを開いた。


以前、真帆のことを考えながら書いたページがあった。


そこには、自分の言葉が並んでいた。


周囲への配慮。


職場全体の安心。


同じ方向を向くこと。


どれも、悪い言葉ではない。


むしろ、誰もが大切にしたいと思う言葉だった。


だからこそ、玲奈は、それらを使うことに迷いがなかった。


けれど、言葉は、それだけで正しいわけではない。


何を伝えるために使うのか。


誰に向けて使うのか。


その言葉によって、誰が話しやすくなり、誰が話しにくくなるのか。


考えなければならないことは、たくさんあった。


玲奈は、ノートに書いた。


「私は、何を見たのか」


その下に、もう一行。


「私は、何を想像したのか」


そして、最後に。


「私は、何を事実だと思い込んだのか」


ペン先が止まった。


真帆は、自分の考えを調べたいと言った。


自分の身体のことだから、自分で考えて決めたいと言った。


それ以上のことは、真帆自身から、はっきり聞いていなかった。


周囲を不安にさせたいとも、職場の協力を乱したいとも、真帆は言っていなかった。


それなのに、自分は、そうなる可能性を想像し、その可能性を前提に言葉を選んでいた。


自分の言葉が誰かを傷つけたかもしれない。


そう考えることは、簡単ではなかった。


けれど、簡単ではないからといって、考えずに済ませていいわけではなかった。


玲奈は、ノートを閉じた。


まだ、何をすればいいのか、はっきりとはわからなかった。


ただ、わからないことを、わからないままにしておくこと。


それも、ひとつの始まりなのかもしれなかった。


## 5 送信する前に


夕方、仕事を終えた玲奈は、真帆とのチャット画面を開いた。


最後に個人的なやり取りをしたのは、いつだっただろう。


仕事上の連絡はあった。


必要な確認も、短い返信もあった。


けれど、互いの考えについて話すことはなかった。


玲奈は、メッセージを書き始めた。


「水野さん。


少し、お話しできませんか。


これまで、私は、あなたの考えを十分に聞かないまま、自分なりに解釈していたのかもしれません。


そのことで、あなたが話しにくいと感じていたなら、一度、きちんとお話ししたいと思っています」


そこまで書いて、玲奈は指を止めた。


これでいいのだろうか。


自分は、本当に真帆の話を聞きたいのだろうか。


それとも、自分の気持ちを伝えて、少しでも楽になりたいのだろうか。


謝れば、真帆は許してくれるだろうか。


許してくれなかったら、自分はどうするのだろう。


玲奈は、また、自分のことばかり考えていた。


相手の返事を、自分が安心するための答えにしてはいけない。


謝罪をしたからといって、相手が許さなければならないわけではない。


自分が反省しているからといって、相手が受けたものまで消えるわけではない。


玲奈は、文章を読み返した。


それから、最後に一文を加えた。


「すぐに返事をしなくても大丈夫です」


送信ボタンを押す。


メッセージは、画面に表示された。


既読にはならなかった。


玲奈は、スマートフォンを伏せた。


返事を待つことにした。


今度は、沈黙の意味を、自分の都合で決めないように。


## 6 真帆の画面


同じころ、真帆は自宅で夕食の支度をしていた。


テーブルの上には、仕事で使ったノートパソコンが置かれている。


在宅勤務が増え、会社との距離は近くなったようにも思える。


いつでも連絡が取れる。


必要な資料を共有できる。


会議にも、場所を選ばず参加できる。


便利になったことは、確かにある。


けれど、画面の向こう側にいる人の気持ちまで、わかるようになったわけではない。


むしろ、見えなくなったものもある。


会議で発言しなかった人が、何を考えていたのか。


短い返信をした人が、忙しかったのか、迷っていたのか。


何も言わなかった人が、納得していたのか、それとも、言葉を探していたのか。


画面に表示された情報だけでは、わからないことがあった。


真帆は、玲奈からのメッセージに気づいた。


画面を開き、文章を読んだ。


すぐには、返事をしなかった。


玲奈が何を考えているのか、真帆にはわからない。


本当に話を聞こうとしているのかもしれない。


自分の気持ちを整理するために、真帆の返事を求めているのかもしれない。


そのどちらも、あるいは、別の何かも、今はわからなかった。


以前なら、玲奈の言葉を読みながら、相手の意図を考え続けていたかもしれない。


自分の質問が悪かったのだろうか。


もっと周囲に配慮するべきだったのだろうか。


みんなが安心できるように、自分が何かを変えるべきなのだろうか。


けれど今は、少しだけ違った。


わからないことを、すぐに決めなくてもいい。


相手の気持ちを、本人に確かめる前から決めつけなくてもいい。


自分の気持ちについても、同じだった。


真帆は、スマートフォンを置いた。


玲奈と話すかどうかは、まだ決められない。


ただ、返事を急ぐ必要はなかった。


それは、玲奈を罰するためではない。


自分の気持ちを、自分で確かめるためだった。


## 7 それぞれの「みんな」


翌週のWebミーティングでは、働き方について、もう一度話し合いが行われた。


在宅勤務を続けたいという意見があった。


出社したほうが仕事を進めやすいという意見もあった。


対面でなければ伝わりにくいことがある。


一方で、オンラインのほうが発言しやすいと感じる人もいる。


誰かが、こんなことを言った。


「でも、みんな、できるだけ柔軟に働きたいと思っているんじゃないですか」


その言葉に、真帆は、少しだけ考えた。


そして、マイクをオンにした。


「柔軟に働けることは、大切だと思います。ただ、何が柔軟なのかは、人によって違うかもしれません」


誰も、すぐには答えなかった。


真帆は、続けた。


「ですから、みんなが同じことを望んでいると考えるより、それぞれの事情を聞きながら、できることを考えていけたらいいと思います」


言い終えてから、真帆は少し緊張していたことに気づいた。


自分の言葉が、どう受け取られたのか。


気にならないわけではなかった。


けれど、反応を確かめる前から、相手の気持ちを決めつけないようにしようと思った。


黒田がうなずいた。


「そうですね。全員に同じ方法を当てはめるのではなく、業務上の必要性と、それぞれの事情を確認しながら考えていきましょう」


高橋も発言した。


「僕も、そう思います。意見が違っても、話し合うことはできますから」


会議は、そのまま続いていった。


全員が納得したわけではないかもしれない。


何もかもが解決したわけでもない。


けれど、少なくとも、その場では、異なる考えが言葉になった。


真帆は、画面を見つめた。


誰かが自分に賛成してくれたから、安心できたのではない。


自分と違う意見があっても、話し合いを続けられる。


そのことに、少しだけ希望を感じていた。


## 8 返事


その日の夕方、真帆は玲奈に返信した。


「メッセージ、読みました。


今すぐに、うまく話せるかどうかはわかりません。


でも、いつか、お話しできればと思います」


送信したあと、真帆は画面を閉じた。


それは、許したという意味ではなかった。


何もなかったことにするという意味でもなかった。


ただ、話す可能性を、閉ざさずにおくという返事だった。


玲奈は、しばらくしてから、そのメッセージを読んだ。


胸の奥に、安堵が広がりかけた。


けれど、すぐに立ち止まった。


これは、許してもらえたということなのだろうか。


そう決めるのは、まだ早い。


真帆は、いつか話せればいいと書いてくれた。


それ以上でも、それ以下でもない。


玲奈は、短く返信した。


「ありがとうございます。水野さんの気持ちを、急がせないようにします」


送信してから、玲奈はスマートフォンを置いた。


まだ、嗅覚も味覚も、完全には戻っていない。


真帆との関係も、元に戻ったわけではない。


職場の空気が、一日で変わったわけでもない。


それでも、何かを急いで結論づけないこと。


自分にとって都合のいい答えを、相手の沈黙から読み取らないこと。


その小さな違いを、玲奈は忘れないようにしたかった。


## 9 誰も同じではない


数日後、真帆は在宅勤務を終え、窓の外を見ていた。


夕方の光が、向かいの建物を照らしている。


この数か月で、いろいろなことが変わった。


感染症への不安。


人との距離。


働く場所。


誰かと話すときの言葉。


そして、何をもって「協力している」と言えるのかということ。


以前は、みんなが同じ方向を向くことが、協力なのだと思われていた。


同じ考えを持つこと。


同じ判断をすること。


疑問を口にするより、周囲に合わせること。


それが、職場の安心につながるのだと。


けれど、本当にそうだったのだろうか。


同じ方向を向いているように見える人たちの中に、別のことを考えている人はいなかっただろうか。


声を上げなかった人は、本当に納得していたのだろうか。


誰かの言葉を聞いて、何も言えなくなった人はいなかっただろうか。


真帆は、自分自身にも問いかけた。


自分は、いつも相手の話を公平に聞けていただろうか。


自分にとって都合のいい情報ばかり集めていなかっただろうか。


自分の判断を守るために、相手の言葉を必要以上に悪く受け取っていなかっただろうか。


そうではない、と言い切ることはできなかった。


自分だって、間違える。


不安になる。


自分の考えを認めてほしいと思うこともある。


だからこそ、必要なのかもしれなかった。


自分が正しいと思ったときほど、立ち止まること。


相手が間違っていると思ったときほど、もう一度、話を聞くこと。


そして、わからないことを、わからないままにしておく勇気を持つこと。


真帆は、ノートを開いた。


最初のページに、あの言葉が書かれていた。


「みんなって、誰なんだろう」


真帆は、その下に、新しい一文を書き加えた。


「みんなの中には、まだ話していない人がいる」


書き終えてから、ペンを置いた。


その一文が、すべての答えになるわけではない。


明日になれば、また違う問題が起きるかもしれない。


誰かの善意が、別の誰かを傷つけることもあるだろう。


正しさを信じるあまり、相手の声が聞こえなくなることもあるだろう。


それでも、問い直すことはできる。


自分が見たものは、本当にすべてだったのか。


自分が信じていることは、誰かの声を聞かない理由になっていないか。


そして、自分が「みんな」と呼んでいる人たちの中に、声を出せずにいる誰かはいないだろうか。


## 10 明日も、問いかける


その夜、玲奈は、もう一度コーヒーを淹れた。


香りは、まだ弱かった。


ひと口飲む。


以前と同じ味ではない。


それでも、温かさは感じられた。


玲奈は、カップを置き、ノートを開いた。


そこには、あの日、自分が書いた問いが残っていた。


「私は、何を見たのか」


「私は、何を想像したのか」


「私は、何を事実だと思い込んだのか」


玲奈は、その下に、もう一行を書いた。


「私は、誰の声を聞かなかったのか」


答えは、まだ出なかった。


真帆との関係も、職場の空気も、すぐには変わらないだろう。


自分の言葉によって、誰かが話しにくくなっていたのだとしたら、その時間をなかったことにはできない。


謝罪をすれば、すべてが元に戻るわけでもない。


それでも、自分の言葉を振り返ることはできる。


相手の話を聞くことはできる。


自分の解釈が間違っていたかもしれないと、認めることもできる。


それは、簡単なことではない。


けれど、誰かを守りたいと願うのなら。


自分の正しさを守ることだけに、夢中になってはいけないのだろう。


玲奈は、ノートを閉じた。


窓の外には、いつもと変わらない夜が広がっていた。


翌日も、会社では意見が交わされるだろう。


誰かが賛成し、誰かが反対し、誰かが黙るかもしれない。


画面の向こう側で、誰かがうなずく。


誰かが、マイクをオフにしたまま、言葉を飲み込む。


そのとき、自分は何を選ぶのだろう。


相手の沈黙を、都合のいい同意に変えてしまうのか。


それとも、まだ聞いていない声があるかもしれないと、立ち止まるのか。


真帆にも、玲奈にも、まだ答えはわからなかった。


誰もが、正しいと思うことをしているつもりだった。


誰もが、誰かを守りたいと願っていた。


それでも、善意は、ときに人を傷つける。


正しさは、ときに人の声を奪う。


そして、誰もが同じ方向を向いているように見えるときほど、その輪の外側にいる人の存在を、忘れてしまうことがある。


だからこそ、問い続けなければならない。


自分の正しさを疑うことは、正しさを捨てることではない。


誰かの意見を聞くことは、自分の考えを手放すことでもない。


違うままで、話し合うことはできる。


すぐにわかり合えなくても、相手を決めつけずにいることはできる。


真帆は、ノートを閉じた。


明日も、きっと、何かの意見が交わされる。


誰かが賛成し、誰かが反対し、誰かが黙る。


そのとき、自分は何を選ぶのだろう。


まだ、わからない。


それでも、もう一度、問いかけることはできる。


みんなの中に、まだ声を出せずにいる人がいるかもしれない。


みんなの中に、自分とは違う考えを持つ人がいるかもしれない。


そして、自分自身もまた、誰かの「みんな」の一人なのだ。


真帆は、窓の外を見た。


明日も、世界は続いていく。


答えの出ない問いを抱えたままでも。


違う考えを持つ人たちと、同じ場所で生きていくために。


**みんなって、誰なんだろう。**


その問いに、決まった答えはなかった。


だからこそ、問い続けることに意味があるのかもしれなかった。

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