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『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』<< Atonement >>  作者: 東曌


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第九話 玲奈の罹患

第九話 玲奈の罹患


## 1 香りのない朝


最初に気づいたのは、コーヒーの香りだった。


月曜日の朝、玲奈はいつものようにコーヒーメーカーのスイッチを入れた。


豆を挽き、フィルターをセットし、湯が落ちていくのを待つ。


その間に、窓のカーテンを開けた。


薄い雲が広がっていた。


雨は降っていない。


いつもと変わらない朝だった。


コーヒーができあがり、玲奈はマグカップを手に取った。


香りがしなかった。


最初は、気のせいだと思った。


寝不足なのかもしれない。鼻が詰まっているのかもしれない。


玲奈はカップに顔を近づけ、もう一度、息を吸った。


何も感じない。


いや、何も、というのは正確ではなかった。


湯気の温かさはわかる。


コーヒーの色も見える。


けれど、いつもなら自然に感じられる香ばしさが、そこにはなかった。


玲奈は一口飲んだ。


温かい。


苦いような気もする。


でも、味の輪郭がぼやけていた。


いつものコーヒーを飲んでいるはずなのに、何かが欠けていた。


玲奈はカップを置き、スマートフォンを手に取った。


体温を測る。


少し高い。


もう一度測る。


やはり、いつもより高かった。


喉にも違和感がある。体が重い。


玲奈は、しばらく考えてから、会社に連絡した。


「少し体調が悪いので、今日は出社を控えます」


電話口の黒田課長は、すぐに答えた。


「わかりました。無理をせず、必要な受診や検査をしてください。仕事はこちらで調整します」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいですよ。まずは体調を優先してください」


電話を切ったあと、玲奈はソファに腰を下ろした。


謝らなくていい。


黒田は、そう言った。


それなのに、自分は謝っていた。


何に対してだろう。


仕事を休むこと。


周囲に迷惑をかけること。


誰かを心配させること。


あるいは、自分が体調を崩してしまったことそのものに。


玲奈は、考えるのをやめた。


まだ、何もわかっていない。


まずは体を休めること。


そう自分に言い聞かせた。


けれど、その日の午後になっても、コーヒーの香りは戻らなかった。


## 2 陽性


医療機関で相談し、検査を受けた。


結果は、新型コロナウイルス陽性だった。


医師から説明を受け、療養中の過ごし方や、体調が悪化した場合の相談先について案内された。


玲奈は、うなずきながら話を聞いた。


特別なことではない。


感染する人はいる。


自分も、その一人になった。


頭では、わかっていた。


ワクチンを接種していても、感染することはある。


感染したという事実だけで、ワクチンに意味がなかったと判断できるわけではない。


感染を防ぐ効果と、重症化などのリスクを下げる効果は同じではないし、効果は時間や流行する変異株などによっても異なる。


そんな区別を、玲奈は知識として知っていた。


それでも、診断を受けたとき、胸の中に浮かんだのは、もっと個人的な感情だった。


どうして、今なのだろう。


そんなことを考えても、答えはない。


誰かのせいにできる話でもない。


感染したという事実は、玲奈が何を信じていたかとは関係なく、そこにあった。


帰宅してから、玲奈は会社に改めて連絡した。


必要な情報を伝え、療養に入ることを報告した。


黒田は、接触状況など必要な確認を行うと伝えたうえで、最後にもう一度言った。


「仕事の心配はしなくていいですから」


「ありがとうございます」


玲奈は電話を切った。


そして、ふと思った。


もし、真帆が感染したとき、自分はどんなことを考えていただろう。


真帆の体調を心配しただろうか。


もちろん、心配したと思う。


それと同時に、周囲への影響を考えただろうか。


きっと、考えた。


それは仕事をするうえで必要なことでもある。


感染した人を責めるのではなく、必要な対策をとること。


誰かを危険にさらさないように、確認すべきことを確認すること。


それは、間違っていない。


玲奈は、そこまで考えて、手を止めた。


また、同じことをしている。


自分の考えが間違っていないことを、一つずつ確認している。


けれど、今、自分が確かめたいのは、本当にそれだけなのだろうか。


玲奈はスマートフォンをテーブルに置いた。


答えは、まだ出なかった。


## 3 味のない食事


二日目の昼、玲奈は簡単な食事を用意した。


食欲はあまりなかったが、何か食べておこうと思った。


冷蔵庫から出したものを温め、テーブルに並べる。


いつもなら、湯気と一緒に香りが立つ。


今日は、それがなかった。


玲奈は箸を持った。


口に入れる。


熱さはわかる。


歯ごたえもある。


飲み込むこともできる。


それなのに、おいしいという感覚が、ほとんどなかった。


もう一口、食べてみた。


変わらない。


玲奈は箸を置いた。


こんなことが、自分の身に起きるとは思っていなかった。


もちろん、嗅覚や味覚に変化が起こることがあるのは知っていた。


ニュースでも読んだことがある。


誰かが話しているのを聞いたこともある。


けれど、そのときの玲奈にとって、それは、どこか遠い場所で起きている出来事だった。


知っていることと、実際に経験することは違う。


その言葉が、頭に浮かんだ。


玲奈は、少しだけ笑った。


そんなことは、当たり前だ。


経験していないことを、完全に理解するのは難しい。


そんな当たり前のことを、今さら考えている。


それでも、食卓の上の食事を見ていると、心細かった。


いつもなら、何でもない昼食だった。


特別においしい料理ではない。


誰かに自慢するような食事でもない。


それでも、香りがあり、味があり、食べることで満たされるものがあった。


その当たり前が、今は遠く感じられた。


玲奈は、真帆のことを思い出した。


真帆は、何を知りたかったのだろう。


ワクチンを接種するべきかどうか。


周囲に感染させる可能性をどう考えるべきか。


自分の体に関わることを、どこまで調べて、どう判断すればよいのか。


真帆が知りたかったのは、きっと、そういうことだった。


けれど玲奈は、いつの間にか、別のことを考えていた。


真帆の質問が、周囲を不安にさせないか。


ほかの人の選択を揺るがさないか。


職場の雰囲気を悪くしないか。


真帆が何を知りたいのかを聞く前に、真帆の質問が何を引き起こすのかを想像していた。


そして、その想像を、いつの間にか現実のように扱っていた。


玲奈は、もう一度、食事に手を伸ばした。


味は戻っていなかった。


## 4 誰かの心配


その日の夕方、由紀からメッセージが届いた。


「体調どう? 無理しないで、ゆっくり休んでね」


玲奈は、すぐに返信した。


「ありがとう。熱は落ち着いてきたけど、匂いも味もほとんど感じなくて。ちょっと不思議な感じ」


由紀から、心配する言葉が返ってきた。


玲奈は、少しほっとした。


気にかけてもらえることが、ありがたかった。


しばらくして、別の同僚からも連絡があった。


必要な仕事の引き継ぎについての確認だった。


玲奈は、できる範囲で説明し、業務上必要な情報を伝えた。


そのやり取りのあと、ふと考えた。


今、自分は、誰かにどう思われているのだろう。


心配されている。


仕事の調整をしてもらっている。


それは、わかっている。


でも、誰かが心の中で、感染したことをどう受け止めているのかまではわからない。


自分が感染したことで、職場の人たちを不安にさせてしまったのではないか。


そう考え始めると、止まらなかった。


玲奈は、スマートフォンを握りしめた。


そして、はっとした。


自分は今、何をしているのだろう。


他人の心を、勝手に想像している。


誰かが自分を責めているかもしれない。


誰かが不安になっているかもしれない。


その可能性を考えること自体は、おかしくない。


けれど、確かめていないことを、いつの間にか事実のように感じ始めている。


真帆に対して、自分がしていたことと、似ていなかっただろうか。


玲奈は、画面を見つめた。


自分は、真帆のことを心配していた。


真帆自身が不安にならないように。


周囲の人たちも、不安にならないように。


その気持ちは、本当だった。


でも、自分は真帆に、何を聞いただろう。


何を不安に感じているのか。


どんな情報を調べたのか。


何がわからず、何を確かめたいのか。


自分は、どれだけ聞いただろう。


玲奈は、思い出そうとした。


思い出せなかった。


正確には、思い出せる会話はあった。


けれど、それらの会話の中で、自分が真帆の問いを受け止めるより先に、周囲の反応を気にしていたことに、今さらながら気づいた。


玲奈は、深く息を吐いた。


心配することと、相手を理解することは、同じではない。


その言葉は、簡単だった。


でも、今までの自分には、見えていなかった違いだった。


## 5 送れないメッセージ


夜になっても、玲奈は真帆へのメッセージを送れずにいた。


メッセージ画面を開き、文章を打ち始める。


「水野さん、実は私もコロナに感染してしまいました」


そこで、指が止まった。


これを送って、どうしたいのだろう。


心配してほしいのか。


自分の経験を知ってほしいのか。


それとも、これまで自分が真帆に向けていた言葉を、少しでも理解してもらいたいのか。


玲奈は、文章を消した。


自分が感染したことは、真帆との関係とは別の出来事だ。


自分が苦しいことを理由に、真帆に何かを求めるのは違う。


まして、自分が感染したからといって、真帆の考えが正しかったことになるわけではない。


感染した人がいる。


その事実から、誰かの判断全体を正しい、あるいは間違っていると結論づけることはできない。


玲奈は、そのことを知っていた。


知っているはずだった。


それでも、心のどこかで、今回の経験を、真帆に何かを伝える材料にしようとしている自分がいた。


自分も、感染することがある。


自分も、突然、不安になる。


自分も、周囲の人がどう思うのかを気にしてしまう。


だから、真帆の気持ちがわかった。


そう言いたかったのかもしれない。


けれど、それは、本当だろうか。


真帆が感じていた息苦しさと、自分が今感じている不安は、同じものなのだろうか。


似ているところはあるかもしれない。


しかし、自分は今、療養している。


真帆は、職場にいながら、自分の考えを話すことにためらいを感じていた。


二人の状況は違う。


自分が少し理解できたように感じたからといって、真帆の経験まで理解したことにはならない。


玲奈は、スマートフォンを伏せた。


まだ、送らないでおこう。


それは、逃げるための沈黙なのか。


相手の領域に踏み込みすぎないための沈黙なのか。


玲奈には、まだわからなかった。


## 6 高橋の声


翌日、会社では、いつもどおり仕事が進んでいた。


玲奈がいない分、いくつかの業務は分担されていた。


高橋も、その一つを引き受けていた。


昼前、由紀が声をかけた。


「高橋さん、玲奈さんの担当分、確認できました?」


「はい。必要なところは、いったん整理しました」


「ありがとう。急に休みになっちゃったから、大変ですよね」


「まあ、仕方ないですよ。体調が悪いときは、休んでもらわないと」


高橋はそう答えた。


由紀はうなずいた。


「そうですよね。無理して出社されても困りますし」


その会話は、何の問題もなく終わるはずだった。


けれど、高橋は少し考えてから、口を開いた。


「でも、感染したこと自体を、本人の配慮が足りなかったせいだと考えるのは違うと思います」


由紀は、少し驚いたように高橋を見た。


「え? もちろん、そういう意味じゃないですよ」


「はい。わかっています」


高橋は慌てて付け加えた。


「すみません。由紀さんがそう言った、ということじゃなくて」


彼は言葉を探した。


「感染対策は必要だと思います。でも、感染した人を責めるような空気になったら、体調が悪くても言い出しにくくなるかもしれないと思って」


由紀は黙っていた。


高橋は、自分の手元に目を落とした。


以前なら、ここで話を終わらせていただろう。


余計なことを言って、誰かを不快にさせたくない。


職場の空気を悪くしたくない。


そう考えて、言葉を飲み込んでいた。


今も、怖くないわけではない。


自分の発言が、どう受け取られるのか。


どこまで話していいのか。


それは、相変わらずわからなかった。


それでも、何も言わないことだけが、正しい選択ではないのだと思った。


由紀は、少し考えてから言った。


「そうですね。私も、気をつけます」


高橋は、うなずいた。


それ以上、二人は何も言わなかった。


劇的な変化があったわけではない。


職場の空気が、一瞬で変わったわけでもない。


ただ、高橋は初めて、自分の違和感を、誰かに伝えた。


それだけのことだった。


けれど、その小さな言葉は、以前の高橋には言えなかった言葉だった。


## 7 玲奈の知らない会話


療養中の玲奈は、会社で交わされた会話を知らなかった。


高橋が何を言ったのかも。


由紀がどう答えたのかも。


自分の不在によって、職場の人たちが何を考えたのかも。


玲奈にわかるのは、スマートフォンに届く連絡だけだった。


必要な業務の確認。


体調を気遣う短いメッセージ。


会社からの案内。


そのどれもが、普通のものだった。


玲奈は、少しずつ体調が落ち着いてきたことを感じていた。


けれど、匂いも味も、まだ十分には戻っていなかった。


食事をしても、以前のような満足感がない。


窓を開けても、外の空気の匂いがわからない。


いつもなら何気なく感じていたことが、今は意識しなければならないものになっていた。


玲奈は、真帆のことを考えた。


自分がいない職場で、真帆は今、どんな気持ちで働いているのだろう。


以前と同じように話せているのだろうか。


それとも、今も言葉を選び続けているのだろうか。


玲奈は、答えを知らなかった。


知らないのに、想像しようとしていた。


そして、想像したことを、真帆の本当の気持ちだと思い込まないようにしなければならないと考えた。


それは、簡単なことではなかった。


自分の経験を通して、真帆の気持ちが少しわかったような気がする。


けれど、それは、真帆の気持ちを聞いたこととは違う。


理解したつもりになることは、相手の話を聞くことの代わりにはならない。


玲奈は、スマートフォンを手に取った。


今度は、文章を少し変えた。


「水野さん、体調はどうですか。私はコロナに感染して、今、療養しています」


そこで止めた。


真帆の体調を、自分は知らない。


だから、尋ねること自体はおかしくない。


けれど、その先に、自分の気づきを伝えたい気持ちがあるのも事実だった。


玲奈は、もう一度考えた。


自分が何かに気づいたことを、今すぐ真帆に伝える必要はあるのだろうか。


相手に話を聞いてもらうことを求める前に、自分が相手の話を聞く準備をできているのだろうか。


玲奈は、文章を保存せずに画面を閉じた。


まだ、送らない。


今度は、少なくとも、なぜ送ろうとしているのかを考える時間が必要だった。


## 8 悪意がなかったということ


数日後、玲奈の体調は少しずつ回復していた。


熱や喉の違和感は落ち着き、日常の動作も楽になってきた。


ただ、嗅覚と味覚の変化は続いていた。


いつ戻るのかは、わからない。


玲奈は、医療機関からの案内に従い、無理をせずに過ごしていた。


ある日の午後、由紀から電話があった。


「玲奈さん、調子はどう?」


「だいぶよくなったよ。まだ、匂いも味も、あまりわからないけど」


「そっか。早く戻るといいね」


「ありがとう」


少し、仕事の話をした。


引き継ぎの状況。


部署の予定。


休んでいる間に変更になったこと。


そして、電話を切る前に、由紀が何気なく言った。


「みんな、玲奈さんが戻ってくるのを待ってるからね」


玲奈は、笑顔になった。


「ありがとう。早く戻れるようにするね」


電話が終わったあと、玲奈はその言葉を思い返した。


みんな、待っている。


それは、うれしい言葉だった。


でも、ふと、考えた。


由紀は、誰に確認して、そう言ったのだろう。


いや、そんなことを考える必要はない。


きっと、由紀自身が、そう思っているのだ。


玲奈は、そう考え直した。


一人の気持ちを、みんなの気持ちに変えてはいけない。


由紀が自分を気遣ってくれている。


それは、事実だ。


ほかの人たちも、同じように思っているかもしれない。


それは、可能性だ。


その二つは、違う。


玲奈は、目を閉じた。


自分は、これまで、何度その違いを曖昧にしてきたのだろう。


真帆の質問を聞いた。


周囲が不安になるかもしれないと考えた。


その可能性を、職場全体の問題として扱った。


そして、誰も反対しなかったことを、自分の判断が受け入れられた証拠のように感じていた。


けれど、誰も反対しなかったからといって、誰もが賛成していたとは限らない。


誰かが黙っていたからといって、納得していたとは限らない。


誰かが善意で行動したからといって、その結果まで善意に満ちているとは限らない。


玲奈は、ゆっくりと目を開けた。


自分は、真帆を傷つけようとしていたわけではなかった。


それは、本当だ。


けれど、傷つけるつもりがなかったという事実は、真帆が傷つかなかったことの証明にはならない。


そして、もし自分の言葉が真帆を傷つけていたのなら。


そのことを認めるために、真帆が自分を許してくれる必要はない。


玲奈は、まだ謝ることができなかった。


自分が何をしたのか、すべてを理解できたわけではないからだ。


けれど、わからないことを理由に、何も考えずにいることも、もうできなかった。


## 9 自分の言葉を引き受ける


その夜、玲奈はノートを開いた。


仕事のメモに使っている、何の変哲もないノートだった。


最初のページに、日付を書いた。


そして、その下に、短い文章を記した。


――私は、何を見たのか。


しばらく考えてから、続けた。


――私は、何を想像したのか。


さらに、その下に書いた。


――私は、何を事実だと思い込んだのか。


玲奈は、ペンを置いた。


自分が真帆について知っていることを、書き出してみようと思った。


真帆は、ワクチンを接種するかどうか、すぐには決めなかった。


真帆は、情報を調べたいと言った。


真帆は、自分の体のことだから、自分で考えたいと話した。


そこまでは、真帆自身の言葉や行動から確認できることだった。


では、その先はどうだろう。


真帆は、周囲の人たちを不安にさせたいと思っていたのか。


自分たちの選択を否定したかったのか。


職場の協力を拒もうとしていたのか。


玲奈は、ペンを握ったまま、動けなくなった。


どれも、真帆から直接聞いたことではなかった。


自分が、そういう可能性を考えたのだ。


そして、考えたことを、いつの間にか真帆の姿に重ねていた。


玲奈は、ノートの端に、小さく書いた。


――私は、真帆のことを、どれだけ知っていたのだろう。


その問いには、まだ答えられなかった。


自分の言葉が、職場の空気にどれほど影響したのかも、正確にはわからない。


真帆が、どれほど傷ついたのかも、わからない。


わからないことばかりだった。


けれど、だからこそ、勝手に答えを決めてはいけないのだと思った。


玲奈はノートを閉じた。


自分が正しいと信じていたことを、すべて捨てる必要はない。


周囲への配慮は大切だ。


感染対策も大切だ。


人を不安にさせないように言葉を選ぶことも、必要なときがある。


ただ、それらを理由に、誰かの問いを封じてはいけない。


相手を心配しているという理由で、相手の気持ちを決めつけてはいけない。


自分の善意を、疑う必要のないものにしてはいけない。


玲奈は、もう一度、真帆の名前を思い浮かべた。


今度、話をするときには。


自分の気づきを伝えることより先に、真帆が何を感じていたのかを聞きたい。


ただし、それを聞くことが、すぐに許してもらうための手段になってはいけない。


真帆が話したくないなら、その意思も尊重しなければならない。


自分が変わりたいと思うことと、相手が自分を受け入れることは、別のことなのだから。


玲奈は、ノートを机の引き出しにしまった。


まだ、償いと呼べるほどのことは、何もしていなかった。


ただ、自分が何をしたのかを考え始めた。


その小さな一歩を、今は、それ以上でもそれ以下でもないものとして受け止めることにした。


## 10 誰も悪者ではない、はずだった


夜、玲奈はもう一度、コーヒーを淹れた。


香りは、まだ、ほとんど感じられなかった。


一口飲んでみる。


やはり、いつもの味とは違う。


玲奈は、カップをテーブルに置いた。


誰かが悪意を持っていたわけではない。


自分も、由紀も、黒田も、ほかの同僚たちも。


みんな、それぞれの事情や不安を抱えていた。


誰かを守りたかった人もいる。


自分の選択を信じたかった人もいる。


職場の空気を乱したくなかった人もいる。


間違っていると思われたくなかった人もいる。


そして、何も言えなかった人もいた。


その誰もが、何かを守ろうとしていたのかもしれない。


けれど、何かを守ろうとする気持ちが重なった結果、誰かが声を出しにくくなっていたとしたら。


その責任は、いったい誰にあるのだろう。


一人だけにあるとは限らない。


だからといって、誰にもないことにもならない。


玲奈は、窓の外を見た。


明日になれば、また一日が始まる。


体調が戻れば、会社に復帰する日も来る。


真帆と顔を合わせることになるだろう。


そのとき、自分は何を言えばいいのだろう。


謝ればいいのか。


説明すればいいのか。


それとも、まずは何も言わずに、真帆の言葉を聞けばいいのか。


玲奈には、まだわからなかった。


けれど、一つだけ、以前とは違うことがあった。


もう、自分の善意だけを根拠にして、答えを決めることはできなかった。


自分は、誰も傷つけたくなかった。


それは、本当だった。


でも、その思いだけでは、誰かを傷つけなかったことの証明にはならない。


玲奈は、冷めかけたコーヒーを、もう一度口にした。


味は、まだ、戻っていなかった。


そのことを確かめるように、彼女はしばらくカップを見つめていた。


誰も悪者ではない。


そう思いたかった。


そう思うことで、救われるものがあるのかもしれない。


けれど、誰も悪者ではないという言葉で、誰かが受けた傷まで見えなくなってしまうのなら。


その言葉は、誰のためにあるのだろう。


玲奈は、答えを出さなかった。


答えを急ぐことが、今まで自分を安心させるための方法だったのかもしれない。


今は、わからないままでいることから、逃げないでいたかった。


コーヒーの香りは、まだしなかった。


そして、玲奈の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。


それが本当に変化なのか、ただの一時的な気づきなのか。


それさえも、まだ、わからなかった。

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