エピローグ 考えることを、諦めない
【エピローグ 考えることを、諦めない】
人間は、いつの時代も、集団の中で過ちを犯してきた。
恐怖に包まれたとき。
不安に耐えられなくなったとき。
自分ひとりで判断することが怖くなったとき。
人は、誰かの言葉にすがり、周囲の反応を確かめ、みんなと同じであることに安心しようとする。
そして、いつしか、自分で考えることよりも、みんなが考えているように見えることを信じるようになる。
誰もが賛成しているように見えた。
誰も反対しなかった。
誰も、疑問を口にしなかった。
だから、きっと、これで正しいのだろう。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
沈黙は、同意だったのだろうか。
善意は、誰も傷つけなかったのだろうか。
大勢が信じていることは、それだけで正しいのだろうか。
人間には、自分が信じたいものを信じ、目の前の異変をたいしたことではないと思いたくなる心がある。
それは、特別な誰かだけが持つ弱さではない。
私たちの誰もが、その心を持っている。
だからこそ、考えることを諦めてはいけない。
自分が安心できる答えを見つけたときこそ、もう一度、立ち止まってみる。
自分と違う意見に出会ったときこそ、その人が何を見て、何を恐れ、何を伝えようとしているのか、耳を傾けてみる。
そして、自分の正しさが揺らいだとき、それを恐れるあまり、誰かの声を封じてしまわないようにする。
疑うことと、否定することは違う。
問いかけることと、協力しないことも違う。
違う意見を持つことと、誰かを傷つけることも、同じではない。
私たちは、いつも正しい人間でいることはできない。
思い込みにとらわれることもある。
誰かの言葉を誤解することもある。
善意のつもりで、誰かを追い詰めてしまうこともある。
大切なのは、決して間違えないことではない。
自分もまた、間違えるかもしれないと知っていること。
そして、間違いに気づいたとき、考え直すことを諦めないことだ。
「みんながそう言っているから」
その言葉の向こう側に、声を出せずにいる人はいないだろうか。
「みんなのためだから」
その言葉によって、誰かの自由や尊厳が置き去りにされてはいないだろうか。
「これが正しいことだから」
そう信じる自分は、別の可能性に目を閉ざしてはいないだろうか。
歴史は、過去の人々だけがつくるものではない。
私たちの日々の判断も、誰かにかける言葉も、口にしなかった疑問も、やがて、歴史の一部になっていく。
だから、忘れないでいたい。
集団の中にいる自分を。
自分の中にもある思い込みを。
そして、まだ聞いていない誰かの声を。
人心を求めることは、悪いことではない。
誰かに理解してほしい。
誰かとつながっていたい。
ひとりではないと感じたい。
それは、人間の自然な願いだ。
けれど、その願いが、みんなと同じであることを強いるものになったとき。
私たちは、もう一度、問い直さなければならない。
自分は、本当に相手の心を求めているのだろうか。
それとも、自分と同じ答えを返してくれる人を求めているだけなのだろうか。
答えは、簡単には見つからない。
それでも、考えることを諦めない。
誰かの声に耳を傾けることを諦めない。
自分の正しさを、何度でも問い直すことを諦めない。
その小さな積み重ねが、次の過ちを防ぐ力になるのかもしれない。
そして、いつか、誰かが声を上げたとき。
その声を、みんなと違うという理由だけで、消してしまわないために。
**みんなって、誰なんだろう。**
その問いを、私たちは、これからも忘れてはならない。
【謝意と敬意】
本作『同調圧力―みんな、打つのが当たり前』を執筆するにあたり、アーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』、そしてイアン・マキューアンの小説『つぐない』から、多くの示唆を受けました。
『るつぼ』が描く、恐怖と疑念が人々の判断を揺さぶり、集団の中で個人が追い詰められていく姿。
『つぐない』が問いかける、他者の行動を解釈することの危うさ、誤った理解がもたらす傷、そして過ちを犯した人間が償いと向き合うことの難しさ。
これらの作品から受け取った問題意識は、本作の人物造形と物語の根幹を考えるうえで、大切な手がかりとなりました。
本作は、両作品の物語を再現するものではありません。また、両作品の主題や歴史的背景が、そのまま本作と同一であると考えるものでもありません。
それぞれの作品が投げかける問いに学びながら、現代社会における同調圧力、善意と責任、沈黙と合意、そして人間が自らの正しさを問い直すことの意味を、独自の物語として描こうと試みたものです。
偉大な先行作品と、その創作を通じて読者に問いを残してきた作家たちに、深い敬意と感謝を表します。




