第2話 くまTシャツと狭い安アパート
「おい人間! なぜ死神であるこの俺が、貴様のような小娘の後ろを大人しくついていかなければならんのだ!」
夜の住宅街。 ぶかぶかの黒衣の裾を引きずりながら、俺は不満をぶちまけていた。
だが、前を歩く浅野紡は「はいはい」と生返事を返すだけで、振り返りもしない。
(チッ……腹立たしい女だ。本来なら今すぐその魂を刈り取ってやるところを……)
俺は彼女の後頭部――その少し上に浮かぶ『寿命のカウントダウン』を睨みつける。
デジタル時計のように明滅する数字は、数十年先を静かに刻み続けていた。
あの公園で包丁が振り下ろされた瞬間。 確かに、その数字はゼロへ向かっていた。
(……俺の魂がリンクし、この姿になったのは、こいつの寿命が狂ったせいだ。)
(こいつを守ることは、俺自身を守ること。)
(だから仕方なく同行してやるだけだ。)
そう何度も自分に言い聞かせながら歩く。
やがて紡が立ち止まった。
「着いたよ。ここが私の家。」
「……ボロッ。」
思わず本音が漏れた。
築数十年は経っていそうな木造二階建ての古びたアパート。
思わず本音が漏れた。
ゴツン!
「いたっ!」
小さな頭へ遠慮のない拳骨が落ちる。
「余計なこと言わない。」
「何をする! 事実を述べただけではないか!」
「初対面の女の子の家を見て最初に言うことじゃないでしょ。」
「ならば褒めろと言うのか?」
「せめて黙って。」
「理不尽だ!」
紡は苦笑しながら肩をすくめる。
「文句だけは一人前なんだから。」
「当然だ。我は上級死神だからな。」
「はいはい。」
「その返事をやめろ!」
そして紡はぶかぶかの服ごと俺の襟首を掴み、そのまま引きずっていく。
「離せ! 我は猫ではない!」
抗議も空しく、二階の角部屋へ連行された。
六畳一間。
決して広くはない。
小さなキッチン。
ちゃぶ台。
積み上げられた段ボール。 生活感のある、質素な部屋だった。
「その服じゃ危ないね。」
紡は部屋の隅の段ボール箱をガサゴソと漁る。
「あった!」
取り出したのは、胸いっぱいに大きなくまが描かれた子ども用Tシャツだった。
「これね、昔、弟にプレゼントしたやつ。」
「…………。」
「すごく可愛いと思って選んだんだけど。」
紡は首を傾げる。
「何故か一回も着てくれなかったんだよね。」
クラウスはTシャツをじっと見つめる。
そして――
「……ぷっ。」
思わず吹き出した。
「ふははははっ!」
「人間にも美的感覚が壊滅している者がいるとは!」
「この獣は何だ! なぜこんな満面の笑みなのだ!」
紡はきょとんとする。
「え? 可愛いでしょ?」
「どこがだ!」
「弟もそう言ってたけど。」
「当然だろう!」
紡はTシャツを差し出した。
「じゃあ、着替えよう。」
「断る!!」
即答だった。
「こんな知性の欠片もない獣が描かれた布を、この俺が着るものか!」
「じゃあ、そのままでいい?」
クラウスは自分の黒衣を見下ろく。
袖は手を覆い、裾は床を引きずっている。
歩くたびに裾を踏みそうになる。
「転んで頭でも打ったら大変だし。」
「…………。」
「それとも裸?」
「なっ!?」
「裸で過ごす?」
「……着る。」
「よし。」
紡は満足そうに頷く。
「ちょっ、待て!」
「やめろ! 黒衣を引っ張るな!」
「我が誇りだぞ!」
「はいはい。」
紡はまるで聞いていない。 そのまま手際よく黒衣を脱がせていく。
クラウスの抵抗は、何の意味もなかった。
その瞬間――
紡の手が、ぴたりと止まった。
「……。」
左胸。
そこには包丁で穿たれた傷が残っていた。
血は流れていない。
しかし傷口は黒い空洞となり、その向こう側がぼんやり透けて見えている。
紡は息を呑んだ。
「……それ。」
紡はゆっくりと視線を落とす。
その黒い穴は、
まるで世界そのものが欠け落ちたようだった。
「……痛くないの?」
「痛みはない。」
「でも。」
「見た目は気持ち悪いよね。」
「……。」
クラウスは何も答えない。
実際、
自分でも視線を逸らしたくなる傷だった。
「治るといいね。」
その何気ない一言に、
クラウスは少しだけ目を丸くした。
(俺の心配……だと?)
恐る恐る指を伸ばしかける。
「触ってもいい?」
「触るな。」
「え……。」
クラウスは傷へ手を当てた。
「俺にも分からん。」
「本来なら、この程度の傷など人間界の武器では付かん。」
「まして傷が残るなど有り得ない。」
「……なのに。」
傷は塞がらない。
「気味が悪い。」
その一言だけは、初めて自信がなかった。
紡は申し訳なさそうに俯く。
「……ごめんね。」
「私のせい……だよね。」
「違う!」
思わず声が大きくなる。
(違う。)
(庇ったわけではない。)
(あの顔を見て動けなくなっただけだ。)
(……いや、それはそれで情けないではないか。)
「俺は貴様を助けようとしたわけではない!」
「そうなの?」
「……うむ。」
「でも助けてくれた。」
「違う!」
「ありがとう。」
「だから違うと言っておる!」
全く話が噛み合わない。
「ほら。」
紡はくまTシャツを差し出す。
「お礼に私が面倒見るから。」
「ぐぬぬ……。」
これ以上追及されると困る。
俺はTシャツをひったくり、頭から被った。
悔しいことにサイズはぴったりだった。
「似合う。」
「似合わん!」
「お腹空いたでしょ。」
キッチンへ向かった紡は、冷蔵庫からタッパーを取り出す。
電子レンジが鳴る。
ちゃぶ台へ並んだのは、レトルトカレーだった。
「人間界の兵糧か。」
「いただきます。」
「…………。」
「早く食べなさい。」
恐る恐る一口。
(……っ!?)
辛い。
しかし、美味い。
気付けば皿は空になっていた。
「ふ、ふん。」
「及第点だ。」
「はいはい。」
紡は空になった皿を受け取り、流し台へ運ぶ。
蛇口をひねる音が、小さな部屋に響く。
クラウスはちゃぶ台の前で腕を組み、部屋を見回した。
質素な部屋。
飾り気もない。
それでもどこか、不思議と落ち着く空間だった。
「ふぅ。」
食器を洗い終えた紡は時計へ目を向ける。
壁に掛かった時計は、もう午前一時を回っていた。
「もうこんな時間か。」
「今日はもう寝よう。」
押し入れを開け、布団を一枚だけ取り出す。
「……一枚?」
「うん。」
「まさか。」
「一緒。」
「待てぇぇぇ!」
部屋の電気が消える。
静寂が訪く。
クラウスは天井を見つめたまま、小さく呟いた。
「……小娘。」
「なに?」
「明日から、一人で勝手な行動はするな。」
「は?」
「勘違いするな。」
「貴様の命は、今や俺の命でもある。」
「勝手に死なれると困る。」
紡は意味が分からず首を傾げる。
「……うん?」
「まあ、いいや。」
「気を付ける。」
「そうしろ。」
クラウスはそれ以上何も言わなかった。
「おやすみ、K君。」
その笑顔を見た瞬間。
また胸がざわついた。
(……まただ。)
(この妙な動悸。)
(魂のリンクの副作用か……。)
そう自分に言い聞かせながら、俺は人間の温もりの中で眠りについた。
「K君! 朝!」
翌朝。
目を覚ますと、昨日公園で見たあの美しい姿は、どこにもなかった。
黒縁メガネ。
後ろでひとつに結んだ髪。
地味な服装。
昨夜と変わらない、どこにでもいる普通の女子大生が朝食の支度をしている。
(……また擬態しておる。)
「私はこれから大学。」
「K君も行くよ。」
「はぁ!?」
「何故だ!」
「一人で留守番させる方が危ないでしょ。」
「私の目の届くところにいて。」
「静かにしてたら……」
紡はにこりと笑った。
「今日もコンポタ買ってあげる。」
「…………。」
(くっ……。)
「……分かった。」
「ついていってやる。」
「うん。」
こうして俺は、くまTシャツの上に弟のお下がりのジャンパーを羽織らされることになった。もちろん、前のジッパーは全開だ。ド真ん中で満面の笑みを浮かべる、あの忌々しいくまは隠させてもらえなかった。
死神としての威厳は、人間界へ来てわずか二日で完全に地に落ちたのである――。




