第1話 我が名は
人は知らない。
この世界には、人間の命を見守り、そして厳格に管理する二つの相反する存在が確かに存在しているということを。
ひとつは――天使。
定められた寿命を全うした清らかな魂を優しく迎え入れ、地上で懸命に生きる人々へ神聖な加護を与える、天界の使者。
そして、もうひとつが――死神。
運命によって定められた寿命を迎えた魂を、肉体から静かに、かつ容赦なく切り離し、この世界の厳格な秩序を守り続ける冥界の管理者。
どちらも元は絶対なる神に仕える存在。
遥か遠い太古の昔、同じ源から生まれた“兄弟”と呼ぶべき尊い種族だ。
そして、死神たちの社会にもまた、絶対的な階級が存在する。
冥府の絶対なる王を頂点とし、世界全体の魂の流れを統括する管理者、最前線で魂の刈り取りを担う上級執行官、異形、人獣、擬人虫……そして足元を這い回る最下級の虫型。
その第三位――「上級執行官」にその名を連ねる一人の死神がいた。
彼は誰よりも誇り高く、誰よりも威厳に満ち、そして誰よりも自尊心だけが天を突くほどに高い、高貴なる死神であった。……もっとも。
ほんの数分後、その悠久の時をかけて積み上げた名誉とプライドが、たった一人の平凡な女子大生によって粉々に打ち砕かれることなど、この時の彼は知る由もなかったのだが。
静まり返った深夜の公園。
ガタの来た街灯がパチパチと不穏な音を立て、淡いオレンジ色の光が夜のベンチを寂しげに照らしていた。
(……あれ)
浅野紡は、暗闇の奥へと走り去っていく怪しい男の背中を、ただ呆然と見つめていた。
全身黒づくめの服に、顔を隠す黒いマスク。さらには夜だというのに深いサングラスまでかけていた男。顔の造作はよく見えなかった。
けれど――。
(田口さん……なのかな?)
同じ居酒屋のアルバイト先で働く、少し気弱で真面目な先輩。
背格好や、走るときの少し右足を引きずるような変な癖が、どこか似ている気がした。
だが、今の紡にはそれをじっくり思索するだけの余裕など残されていなかった。
「ふぅ……」
紡はゆっくりと視線を落とし、足元へと戻した。
ヒエッと冷たい夜風が、二人の間に漂う沈黙をそっと吹き抜けていく。
目の前では、温かい缶のコーンポタージュを小さな両手で大事そうに抱え、夢中でフーフーしながら口を付けている一人の少年がいた。
そのどこか必死で、小動物のような微笑ましい姿を見つめながら、紡は思わず「ふふっ」と小さく吹き出してしまった。
「……笑うな、小娘!」
少年はムッとした顔で眉間にしわを寄せ、奪われまいとするようにコーンポタージュの缶を胸元にぎゅっと抱きしめる。
「ごめん、ごめん」
紡は口元を両手で押さえながら、謝るように首を振った。
「だって……」
改めて、目の前にいる少年の姿をまじまじと観察する。
コーンポタージュを大事そうに抱えたその少年は、生意気にも腕を組み、仁王立ちで紡を見上げていた。
しかし、いかんせん身につけている服が大きすぎる。
ぶかぶかの真っ黒なコートとシャツは、彼の小さな身体には全く不釣り合いで、袖からは指先すら出ていない。ずるずると地面を引きずっている状態だ。
さっきまで、暴漢から自分を庇ってナイフで刺されたはずの背の高い青年の姿は、もうどこにもなかった。
「……えっと」
紡は首を大きく傾げた。
どこからどう見ても、目の前にいるのは小学校高学年――せいぜい六年生くらいに見える男の子だ。
「君……さっきまで、私と同じくらいの歳のお兄さん……だったよね?」
「…………」
「それで、今は……小学生くらい?」
少年は固く口を閉ざしたまま、不機嫌そうに明後日の方向を向いている。
紡は一人で腕を組み、混乱する頭を整理し始めた。
「服もぶかぶかだし……」
「……縮んじゃった?」
「いやいや、そんなアニメみたいなこと、あるわけないし……」
「でも、現に目の前で小さくなってるし……」
「え、どういうこと? 私、薬でも飲まされた?」
「もしかして夢? 疲れすぎて幻覚見てるのかな……」
「それとも、新手のマジック――」
「ええい! 少しは黙って我の話を聞け!」
耐えかねたように少年が突然大声を張り上げた。幼く甲高い声が夜の公園に響き渡る。
「黙れ、小娘! べらべらと好き勝手に喋りおって! 貴様のその安っぽい頭で理解できるような現象ではないわ!」
紡はびくっと肩を跳ね上がらせた。
少年はぶかぶかの袖を大きく振り上げ、小さな胸を誇らしげに張ると、夜空に向かって高らかに叫んだ。
「心して聞くがいい! この地上を統べる無知なる人間よ! 我が名は――!」
「クラウス・カイザー・フォン・グランツライヒ・カオスブリンガー!!」
しんと静まり返った夜の公園に、虚しく風の音だけが響き渡る。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙の後、紡は一切の感情を排した真顔でぽつりと言い放った。
「長。」
「なっ!?」
「長すぎる。」
「ほ、ほぼ聞いておらんかったではないか!」
「うん」
紡は悪びれもせず、あっさりと頷いた。
「絶対に覚えられない。」
「貴様……! この名には死神界の栄光ある歴史と、我が一族の尊き由緒が秘められて――」
「じゃあ」
紡はポンと手を叩き、満面の笑みを浮かべた。
「K君ね。」
「…………は?」
「頭文字の『K』から始まるところが多いから。K君。」
「待てぇぇぇぇぇ!!」
クラウス――改めKは、頭を力いっぱい抱えて絶叫した。
「雑! 雑すぎるだろう、小娘!!」
「えー、覚えやすくていいじゃん。」
「由緒も伝統も、我が一族の誇りも何も残っておらん!『K』しか残っておらんではないか!」
「でも、呼びやすいよ?」
「そういう問題ではないわぁぁぁい!!」
「K君。」
「だからその蔑称で呼ぶなぁぁ!!」
プルプルと震えて怒りわ抑えている少年を見て、紡はくすくすと楽しそうに笑う。
「ふふ、怒るとやっぱり子どもっぽいね。」
「子どもではない! 我は人間界の命を統括する上級死神だ!」
「はいはい。」
「そういう設定なんだね。」
「聞けぇぇぇ!! 人の話をまったく聞かん奴だな、貴様は!」
紡はそんな少年の悲痛な抗議を完全に右から左へと聞き流していた。
「そうだ」
紡は思い出したように自分の胸に手を当てた。
「私、浅野紡。19歳の大学生。」
「……」
「一人暮らしで、アルバイトを掛け持ちしてカツカツで生きてます。」
「聞いておらん! なぜ自己紹介で家計事情まで説明する!」
「よろしくね、K君。」
「だからその安易な名で呼ぶなと言っているだろうが!」
「うーん……」
紡は顎に手を当てて、真剣な表情で考え込む。
「さて……どうしよう。」
夜の公園。目の前にいるのは、どう見ても迷子の小学生だ。
服はぶかぶかで地面に引きずっており、このまま放っておくわけにもいかない。
「警察に連れて行く……?」
少し考えるが、すぐに首を横に振った。
「いや……『さっきまで大人の男性だったのが急に縮んだんです』なんて言っても、警察官の人に精神科を勧められるだけだし……説明できないよね。」
さらにじっと少年を見つめる。
「…………」
紡は大きく、深々とため息をついた。
「仕方ない……うち、来る?」
「…………は?」
予想外の提案に、Kは目を見開いた。
「こんな時間に、一人で外を歩かせるわけにもいかないし。なんやかんやで、私を助けようとしてくれたみたいだしね。放っておけないもん。」
「い、いや待て! 勘違いするな、俺は死神だぞ! お前の命を狩りに来た恐怖の――」
「うんうん、反抗期なんだね。」
「違う!!」
「あと、ちょっと中二病も入ってるのかな。」
「違ぁぁぁぁぁぁう!!」
静まり返った夜の公園に、元・上級死神の幼く悲痛な叫び声だけが、虚しく響き渡っていた。




