プロローグ
かつて恐竜を絶滅させた巨大隕石。
死神界では、あれは死神王が振るった大鎌の一振りだと語り継がれている。
いつか俺も、その王を超え、世界の頂点に立つ。
今日が、その伝説の始まりだ。
闇――。
音も、風も、温もりもない世界。
そこには、役目を終えた魂だけが静かに漂っている。
その闇の中を、一人の青年がゆっくりと歩いていた。
我が名は、死神界の至高なる系譜にして、混沌をもたらす者――。
「クラウス・カイザー・フォン・グランツライヒ・カオスブリンガー――」
闇に溶け込むような黒い髪。
だが淡い光を受けると、その色は深い群青へと姿を変える。
瞳は氷のように澄んだ青。
腰には、独特の装飾が施された一本の短剣。
クラウスはゆっくりと短剣を抜き、その美しい漆黒の刃を満足そうに眺めた。
「伝説はここから始まる。」
自信満々に微笑むと、短剣を静かに鞘へ納める。
「初任務で失敗する愚か者もいると聞くが……。」
鼻で笑う。
「我には無縁だ。」
死神界きっての名門。
上級執行官。
そして誰よりも優れた頭脳と美貌。
「数百年後には、今日という日が歴史書へ刻まれるだろう。」
自分で言って、自分で満足そうに頷く。
「うむ。」
「完璧だ。」
誰も聞いていない。
自信満々に微笑んだ。
そして――人間界へ降り立った。
夜の公園。
街灯も少なく、人影もほとんどない。
アルバイト帰りの一人の女性が歩いていた。
浅野紡。
地味な黒縁メガネ。
後ろでひとつに結んだ髪。
どこにでもいる、ごく普通の大学生にしか見えない。
その姿を少し離れた場所から見つめるクラウス。
紡の頭上には、誰にも見えない寿命のカウントダウンが静かに刻まれていた。
「見つけた。」
「今回の対象だ。」
音もなく背後へ降り立つ。
これが死神としての初仕事。
クラウスは不敵に笑う。
「最後くらいは、俺の美しい顔を拝ませてやろう。」
そう言って紡の肩へ手を伸ばした。
肩に触れた瞬間――
「ひゃっ!」
驚いた紡が勢いよく振り返る。
その拍子に、肩へ置かれていたクラウスの手が黒縁メガネへ触れた。
メガネは軽く弾かれ、夜空へくるりと舞う。
同時に、結んでいた髪もほどけ、さらりと夜風になびいた。
街灯の光に照らされた素顔。
そのあまりの美しさに――。
クラウスの思考が止まる。
「…………」
(美しい……。)
(な、何だ……。)
(この胸のざわつきは……。)
完全に硬直する。
その一瞬だった。
物陰から、一人の男が包丁を握って飛び出した。
紡を狙っていた男だった。
本来なら、その刃は紡の胸を貫いていた。
しかし。
突然目の前に現れた黒衣の青年。
驚いた通り魔の狙いは狂う。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
グサッ――。
包丁はクラウスの胸へ深く突き刺さった。
「えっ?」
紡が固まる。
「えっ?」
クラウスも固まる。
「えぇぇぇぇぇぇぇーーっ!?」
男だけが絶叫した。
クラウスはゆっくりと男を見た。
胸には包丁が深々と刺さっている。
それでも平然と鼻で笑う。
「騒ぐな、人間。」
「この程度の傷など、死神には問題無い。すぐ塞がる。」
胸へ手を伸ばす。
「……はずだ。」
その瞬間。
胸の穴から黒い煙が静かに噴き出した。
「……?」
「な、何だこれは?」
男の目には、
刺されても死なず、
胸から黒煙を噴き出すクラウスが、
悪魔そのものに映った。
「ば……化け物ぉぉぉぉ!」
包丁を放り投げ、
一目散に逃げ去っていく。
後にこの男は恐怖から引きこもり、
オカルト掲示板へ、
「あの女には悪魔が憑いている」
と書き込むことになる――。
紡は慌ててクラウスへ駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
「刺されたよね!?」
「救急車!」
スマートフォンを取り出そうとする。
「だから騒ぐな!」
クラウスは叫ぶ。
「俺は死神だ!」
「こんな傷で死ぬわけ……」
言葉が止まる。
黒煙の中へ、
魂が漏れ出すように青白い煙が混ざり始めた。
黒煙は渦を巻き、
クラウスの全身を包み込む。
「なっ!?」
身体が縮み始める。
腕が細くなり、
足も短くなる。
青年だった身体は、
みるみる小学六年生ほどの少年へ変わってしまった。
着ていた黒衣だけがそのまま残り、
袖も裾もぶかぶかに余る。
「何が起きている!?」
胸へ手を当てる。
血は流れていない。
包丁で穿たれた傷だけが、この世のものとは思えない黒い空洞へと変わっていた。
その穴の向こうには、自分の背後の景色がぼんやりと透けて見える。
「傷が……塞がらない……?」
死神の肉体は、本来この程度の傷なら瞬く間に再生する。
……いや、待て。
そもそも人間界の物理攻撃など、この俺には通用しないはずだ。
包丁で刺されること自体、あり得ない。
「なぜだ……。」
胸の黒い空洞へ視線を落とす。
理解できない。
死神として持っていた常識が、音を立てて崩れていく。
視線を紡へ向ける。
彼女は無傷だった。
頭上の寿命のカウントダウンも、何事もなかったかのように静かに時を刻んでいる。
「寿命は……終わっていない。」
「ならば、なぜ俺だけが……。」
その瞬間。
本能が理解する。
――魂のリンク……。
この人間と、俺の魂が繋がったのか。
――そして、この人間が死ねば、俺も消滅する。
「……冗談じゃない。」
紡は呆然と立ち尽くしていた。
「えっ……。」
やがて足元に落ちたメガネへ気付く。
「あ。」
拾い上げ、
そっと掛け直す。
ほどけた髪を、
いつものように後ろで結ぶ。
さっきまでの息を呑む美貌は、
どこにでもいる普通の女子大生へ戻っていた。
クラウスは思わず瞬きを繰り返す。
(……あれ。)
(さっきまでの胸のざわつきが……。)
(収まった。)
(やはり気のせいだったか。)
そう結論付けた瞬間。
紡が心配そうに顔を覗き込む。
「本当に大丈夫?」
顔が近い。
「っ!!」
クラウスの鼓動が跳ね上がる。
(な、何だこの動悸は!?)
(まさか魂のリンクの副作用か!?)
慌てて顔を逸らす。
「こっ……こっちを見るな! 小娘!」
「え?」
「見るなと言っておる!」
紡は首を傾げるばかりだった。
数秒後。
パンッ!
パンッ!
紡は自分の頬を叩いた。
「よし……落ち着け、私。」
深呼吸する。
「まずは、この子。」
近くの自動販売機へ向かう。
温かいコーヒーを一本。
そしてもう一本。
コーンポタージュ。
戻ってくると、
プシュッと缶を開け、
クラウスへ差し出した。
「はい。」
「子どもじゃ、蓋開けるの大変でしょ。」
「…………」
「だから見るなと言っておる……。」
「ん?」
「な、何でもない!」
香ばしい香りが鼻をくすぐる。
恐る恐る一口。
ごくり。
「……っ!?」
肩が震える。
もう一口。
ごくり。
全身がぶるっと震えた。
「う……うまい……!」
思わず缶を抱き締める。
頬は赤く染まり、
目にはうっすら涙。
それでも必死に取り繕う。
「ふ、ふん……悪くない。」
しかし、
手は止まらない。
夢中で飲み続けるクラウスを見て、
紡は思わず吹き出した。
「ふふっ。」
こうして――
人の命を奪うはずだった死神と、
人を放っておけない一人の少女の、
奇妙な物語が、今、幕を開ける。




