9話 違和感
違和感というものは、案外小さい。
大抵は気のせいで終わる。
だからこそ、本当に危険な時ほど見逃しやすい。
第九話です。
「おかしい」
朝、森へ向かう途中でツムギが言った。
前を歩く背中はいつも通りだ。
足取りも乱れていない。
でも、声だけが少し硬かった。
「何が」
俺が聞くと、ツムギは少しだけ間を置いてから答えた。
「少ない」
説明になっていなかった。
「何が」
「ニーラビット」
なるほど、と思う。
ここ数日、罠の成果は確かに良くなかった。
昨日も一昨日も、空が続いていた。
だが、俺には比較材料がない。
この世界に来てまだ日が浅い。
ニーラビットが普段どれくらい獲れるのかも、季節でどう変わるのかも知らない。
「そういう時もあるんじゃないのか」
俺ならそう考える。
罠は万能じゃない。
相手は生き物だ。
掛からない日があっても不思議ではない。
ツムギは歩きながら首を傾げた。
「あるけど」
それから、少しだけ眉を寄せる。
「なんか変」
勘だった。
根拠も、説明もない。
なのに妙に真剣だった。
こういう時のツムギは、意外と軽く流せない。
本人が言葉にできないだけで、何かを感じ取っていることがある。
俺たちはそのまま森へ入った。
朝の森は湿っている。
土は少し柔らかく、踏むたびに靴の裏へ感触が返ってくる。
一つ目の罠は空だった。
紐は外れていない。
枝のしなりもそのままだ。
近くに毛も血も落ちていない。
二つ目も空だった。
三つ目も同じだった。
「ほら」
ツムギが少し不安そうに言う。
確かに、少ない。
いや、少ないというより、いない、に近い。
俺はしゃがみ込む。
地面を見る。
小さな足跡が残っていた。
昨日見たのと同じ形だ。
ニーラビットのものだろう。
だが、少し気になる点があった。
「ツムギ」
「ん?」
「後ろ足が大きいな」
足跡を指差す。
前足より、後ろ足の跡が深い。
踏み込みが強いのか、構造的に体重が後ろへ乗りやすいのか。
ツムギは俺の隣にしゃがみ込んで、足跡を見た。
「ウサギだからね」
当たり前みたいに言う。
なるほど、と思う。
言われてみればそうだ。
跳ねる生き物なら、後ろ足が強いのは自然かもしれない。
俺は罠を見る。
足跡を見る。
草の倒れ方を見る。
逃げた方向を見る。
暴れた跡は薄い。
つまり、そもそもあまり掛かっていないか、掛かってもすぐ外れている。
「……」
少し考える。
後ろ足が発達している。
蹴る力も強いはずだ。
なら、足に掛ける罠は相性が悪いのかもしれない。
手――いや、前脚か。
あるいは胴に掛かる位置に変えるべきか。
罠の形自体を変える手もある。
「何考えてるの?」
ツムギが聞く。
「罠」
正直に答える。
ツムギは困ったような顔をした。
「怖いこと言うね」
そうだろうか。
生き物がいる。
特徴がある。
なら、それを利用する。
俺にはかなり普通の流れだった。
その時だった。
視界の端に文字が浮かぶ。
【罠仕掛 Lv2】
「……」
一瞬だけ目を細める。
驚きはした。
だが、今はそれどころじゃなかった。
森が静かだった。
鳥の声が少ない。
虫の羽音も、いつもより薄い気がする。
風はある。
木も揺れている。
なのに、森の中の“生き物の気配”だけが、どこか後ろへ引いていた。
「クレ?」
ツムギが不思議そうにこっちを見る。
「いや」
立ち上がって周囲を見る。
木。
草。
土。
枝。
影。
何かが見えたわけじゃない。
足跡も、血も、毛もない。
少なくとも、分かりやすい異常は何もない。
でも、嫌だった。
こういう感覚はたまにある。
理由は説明できない。
根拠もまだ拾えていない。
ただ、観察していると、ごくたまに“ないはずの違和感”だけが先に立つ時がある。
今回もそれに近かった。
「どうしたの?」
ツムギが聞く。
「分からない」
正直に答える。
本当に分からなかった。
ただ、何かがおかしい。
そういう感じだけがある。
ツムギは少しだけ黙って、森の奥を見た。
それから、小さく息を吐く。
「帰るか」
早かった。
でも、間違っていない気がした。
「そうだな」
俺も立ち上がる。
罠をそのままにするのは少し気になったが、今ここで無理に粘る理由もない。
収穫がない日自体は、別に珍しくないのだろう。
問題は、その“珍しくなさ”の中に混じっている妙な静けさだった。
帰り道、俺たちはあまり喋らなかった。
ツムギは前を歩く。
俺はその背中を見ながら、何が引っかかっているのかを考える。
ニーラビットが少ないことか。
鳥が静かなことか。
虫の気配が薄いことか。
あるいは、それら全部か。
まだ繋がらない。
繋がらないが、無視もしにくい。
村が見えてきたところで、俺は一度だけ森を振り返った。
何もない。
何もないように見える。
だが、それが一番気持ち悪かった。
結局、その日の違和感の正体は分からなかった。
ただ。
今思えば、あの日からだった。
静かに続いていた日常が、少しずつ形を崩し始めたのは。
第九話を読んでいただきありがとうございます。
この回では、まだ何も起きていません。
ただ、ツムギの勘とクレの違和感だけが残っています。
根拠はありません。
証拠もありません。
それでも、人は時々「何かおかしい」と感じることがあります。
次回もよろしくお願いします。




