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8話 安宿

街へ入った。


依頼も受けた。


金も手に入れた。


けれど、生き残った安心よりも、不安の方が大きかった。


そんな夜の話です。

 朝。


 いや、朝と呼ぶにはまだ少し早い。


 太陽はまだ顔を出していない。空が薄く白み始めただけで、宿の窓から差し込む光も弱かった。


 部屋の中は静かだった。


 安宿の部屋は狭い。壁は薄く、床は少し軋む。寝台は固く、毛布も薄い。昨夜は助かったと思ったが、快適かと言われれば違った。


 それでも、屋根がある。扉が閉まる。雨風を気にせず眠れる。


 そのはずだった。


 ツムギは眠っている。


 規則正しい寝息だけが聞こえる。


 俺は眠れなかった。


 目を閉じる。


 ゴブリンが浮かぶ。


 目を開く。


 城壁が浮かぶ。


 目を閉じる。


 門番が浮かぶ。受付嬢が浮かぶ。銀貨が浮かぶ。宿代が浮かぶ。失敗が浮かぶ。


 考える。


 考える。


 考える。


 答えは出ない。


 このままで生きていけるのか。


 何が足りない。


 何を覚えればいい。


 何を捨てればいい。


 分からない。


 分からないから、余計に眠れない。


 俺は起き上がった。


 音を立てないように毛布をどけ、寝台から降りる。足元の床が小さく鳴ったが、ツムギは起きなかった。


 扉を開ける。


 薄暗い廊下に、人の気配はない。昨夜は騒がしかった宿も、この時間だけは妙に静かだった。


 そのまま裏手へ出る。


 宿の裏には小さな空き地があった。木箱と割れた樽が積まれ、雑草がまばらに生えている。訓練場というほど立派ではないが、誰もいない場所としては十分だった。


 短剣を抜く。


 振る。


 振る。


 振る。


 意味はない。


 剣術なんて知らない。教わったこともない。


 ただ振る。


 考えないために。


 不安を振り払うために。


 現実から目を逸らすために。


 風を切る音だけが響く。


 速く。


 もっと速く。


 振る。


 手が痛い。


 知らない。


 振る。


 肩が痛い。


 知らない。


 振る。


 息が苦しい。


 知らない。


 振る。


 振る。


 振る。


 何も考えなくていい。


 考えたくない。


 考えると不安になる。


 だから振る。


 観察しない。


 理解しない。


 何も見ない。


 ただ振る。


 短剣が手から滑った。


 地面へ落ちる。


 拾う。


 また振る。


 何度目か分からない。


 汗が落ちる。呼吸が乱れる。腕が痺れる。


 それでも止まらない。


 止まったら考えてしまう。


 止まったら思い出してしまう。


 自分が弱いことを。


「……何してるの?」


 声がした。


 振り返る。


 ツムギだった。


 宿の裏口に立っている。寝起きなのだろう。髪が少し乱れていた。


 そこでようやく気付く。


 右手の皮が破れていた。血が滲んでいる。


「おはよう」


 俺は右手を背中へ回した。


 隠すように。


 見られたくなかった。


「おはよ……」


 ツムギが返す。


 だが、途中で言葉が止まった。


 視線が俺の右手へ落ちる。


「やっぱり今日は休まない?」


「……」


 理解できないわけじゃない。


 だが、理解したくなかった。


 休む。


 簡単な言葉だ。


 だが休んでも何も増えない。


 宿代は減る。食料も減る。金も減る。


 街は待ってくれない。


「熱も残ってるし」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃなさそうだから言ってるの」


 即答だった。


 俺は視線を逸らす。


「休んだら金が減る」


「死んだらもっと減る」


「死なない」


「昨日も同じこと言ってた」


 言葉に詰まる。


 昨日の矢。


 ゴブリン。


 逃げる背中。


 全部思い出せる。


 だから余計に、働かなければならない気がしていた。


「そうだな」


 小さく息を吐く。


「ツムギは休んでてくれ」


 ツムギの眉が動く。


「俺は一人で行く」


 風が吹く。


 宿の裏庭に乾いた音が響いた。


 ツムギはしばらく黙ったままだった。


 怒ると思った。


 止めるとも思った。


 だが違った。


「クレ」


 静かな声だった。


「なんだ」


「それ、責任取ってるつもり?」


 言葉が止まる。


「昨日のこと」


 ツムギは続ける。


「私を危険な目に合わせたから?」


 図星だった。


 だから答えられない。


「だったら勘違い」


 ツムギは真っ直ぐ俺を見る。


 少し怒っていた。


 少し悲しそうでもあった。


「私は一緒に来たの」


 否定できない。


「クレが決めたんじゃない」


 何も言えない。


「だから勝手に一人で背負わないで」


 朝日が少しだけ昇る。


 ツムギの横顔が白く照らされた。


「昨日、怖かったんだから」


 小さな声だった。


 だが妙に響いた。


「死ぬかと思った」


 ツムギは視線を落とす。


「クレも死ぬかと思ったし」


 その言葉で、自分が思っていた以上に無茶をしていたことを知る。


 俺は俺のことしか見ていなかった。


 ツムギは俺を見ていた。


 それだけの違いだった。


「だから今日は休もうって言ったの」


 しばらく沈黙が続く。


 答えを探す。


 だが上手く見つからない。


 こういう時の言葉を、俺はあまり知らない。


「……そうだな」


 結局、それしか出てこなかった。


 ツムギは少しだけ不満そうな顔をした。


「休むなら一緒」


「働くなら一緒」


 そして少しだけ笑った。


「借金も半分」


「最後のは違うな」


「違わない」


 即答だった。


 やっぱり面倒だ。


 本当に面倒だ。


 だが、その面倒さが少しだけありがたかった。



 朝日が上がる頃、俺たちは宿の食堂へ下りた。


 薄いスープと固いパン。それでも温かいだけ、昨日の干し肉よりましだった。


 狭い食堂には、俺たちと同じような旅人が数人いる。誰も大声では喋らない。眠そうな顔で食って、飲んで、出ていく。


 街の人間は多いのに、こういう場所は妙に静かだった。


「今日、どうする?」


 ツムギが聞く。


「休む」


 そう言うと、ツムギは少しだけ目を丸くした。


「素直」


「借金が増える前に言っとくが、完全には休まない」


「はいはい」


 返事が軽い。


 俺はパンを千切る。


「依頼は受けない。街の中を見る」


「見る?」


「相場と道と店の位置を覚える。宿の値段も見たい。安い飯屋も」


 ツムギが少し考えてから頷く。


「それは大事かも」


「働く前に、街の方を知らないと話にならない」


 昨日はギルドへ行って、依頼を受けて、外へ出て、それで終わった。あれでは足りない。


 街で生きるなら、街を見ないといけない。


「じゃあ今日は街を歩こう」


「そうだな」


 ツムギは少し嬉しそうだった。


 たぶん、完全に止まるより、その方が気が楽なのだろう。


 俺も同じだった。


 何もしないのは落ち着かない。


 だが、無理に働くのも違う。


 その間くらいなら、たぶんちょうどいい。


 食事を終えて部屋へ戻る。


 狭い部屋だった。


 固い寝台が二つ。小さな机が一つ。窓も小さい。


 だが昨夜は、この部屋があって助かった。


「思ったより寝れた?」


 ツムギが聞く。


「全然」


「知ってる」


 即答だった。


 少し腹が立つ。


「お前は寝てたな」


「寝たよ」


「羨ましいな」


 そう言うと、ツムギは少しだけ笑う。


「その代わり、クレが朝から変なことしてるの見たけど」


「……忘れろ」


「無理」


 それも即答だった。


 忘れられないことは、たぶん俺の方がよく知っている。


 窓の外を見る。


 朝の街はもう動き始めていた。


 荷車が通る。店が開く。人が歩く。金が動く。


 この街は、起きた瞬間からもう誰かを働かせているらしい。


「行くか」


「うん」


 扉を開ける。


 屋根のある部屋を出る前に、一度だけ振り返った。


 安い部屋だ。


 狭いし、固いし、静かでもない。


 それでも昨日の俺たちには必要だった。


 たぶん今日も、必要になる。


 そう思って、俺たちは安宿を出た。

第八話を読んでいただきありがとうございました。


今回は戦闘ではなく、クレの内面を中心に描きました。


強くなる前に、不安になる。

覚悟を決める前に、立ち止まる。


そういう時間も人間には必要だと思っています。


次回は少しだけ時間が進みます。

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