4話 登録
身分証。
現代では当たり前のものです。
ですが、それを持っていない人間から見ると、少し不思議なものに見えるのかもしれません。
街を歩く。
道の両脇には店が並んでいた。
野菜を積んだ店。肉を吊るした店。布を売る店。鍋や皿を並べた店。靴。薬。縄。刃物。村では見なかったものまで普通の顔で並んでいる。
人も多い。
声も多い。
賑やかだった。
そのはずなのに、少し落ち着かない。
村では、誰が何をしているか大体分かった。あの家の誰それが畑へ行って、誰それが井戸へ行って、誰それが牛の世話をしている。そういう流れがあった。
だがここでは違う。
誰が商人で、誰が職人で、誰が客で、誰が盗人で、誰が危険で、誰が安全なのか。
見れば分かることもある。
見ても分からないことの方が多い。
情報が多すぎた。
「そういえば」
「ん?」
「銀貨の価値が分からない」
ツムギが立ち止まる。
それから本気で不思議そうな顔をした。
「今さら?」
「今さらだな」
実際、その通りだった。
門を通った後で聞くことではない。
ツムギはしばらく黙ったあと、諦めたように説明を始めた。
「銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨百枚で金貨一枚」
「なるほど」
「分かった?」
「数字は」
ツムギが呆れた顔になる。
俺は近くの店先へ目を向けた。
銅貨三枚。銅貨十二枚。銅貨二十七枚。銀貨一枚。
値札を順番に見ていく。
パン。干し肉。水袋。簡素な靴。安い外套。少しずつ感覚が繋がる。
そして理解した。
「高かったな」
街へ入るだけで銀貨二枚。
数日どころか、下手をすればもっと生活できる額だった。
「だから言ったじゃん」
ツムギが少し得意そうに言う。
俺は小さく息を吐いた。
街は便利だ。
物がある。人がいる。仕事もある。
その代わり、入るだけで金がいる。泊まるにも金がいる。食うにも金がいる。何をするにも先に金がいる。
「面倒だな」
「街が?」
「街が」
ツムギは少し考えてから笑った。
「生きるのと同じじゃない?」
否定はできなかった。
◇
道端の案内板へ目を向ける。
市場。宿屋街。鍛冶通り。商業区。
そして、
【ギルド ラクーン】
「あったな」
進路を変える。
その瞬間、
ドン。
肩へ柔らかい感触がぶつかった。
「いたっ」
ツムギだった。
「稼ぎがいるな」
「まず謝って」
即答だった。
「悪い」
「雑」
否定できない。
ツムギは呆れながらも歩き出す。
俺も後を追った。
人の流れに混じる。
誰もが何かを売っていた。
物。技術。時間。力。知識。身体。
ここでは、生きることそのものが取引になっている気がした。
「まずは仕事だな」
「うん」
ツムギが頷く。
そして俺たちは、ギルドの前へ辿り着いた。
木の看板に、走る獣みたいな絵が描かれている。
「ラクーン」
「ラクーン」
何故か声が重なった。
少し気まずい。
ツムギも同じだったらしく、少しだけ視線を逸らした。
俺も何も言わない。
そういう空気だった。
扉を押す。
中へ入る。
思っていたより静かだった。
重装備の男。軽装の女。耳の尖った種族。毛むくじゃらの獣人。杖を抱えた老人。包帯を巻いた若い男。昼間から酒を飲んでいる連中もいる。
人は多い。
だが騒がしくはない。
依頼書を見る者。食事をする者。仲間と低い声で話す者。椅子で寝ている者。受付で揉めている者。皆、それぞれの用事をしていた。
酒場のようでもあり、役所のようでもあった。
そして、誰も俺たちを見ない。
少し意外だった。
村なら半日で噂になる。
ここでは違うらしい。
人が多いというのは、それだけで他人への興味が薄くなるのかもしれない。
いや、違う。
興味がないんじゃない。見る必要がないのだ。知らない人間が入ってきても、珍しくないからだ。
その中で、数人だけがこっちを見た。
一瞬だけ。
服。荷物。足元。武器の有無。
見て、それで終わる。
値踏みだった。
長く見ないのは、興味がないからじゃない。見るのが速いからだ。
受付へ向かう。
カウンターの向こうには女性が立っていた。
整った服。整った髪。整った笑顔。
だが目は笑っていない。
仕事の顔だった。
「見慣れない顔ですね」
先に声を掛けてくる。
「初めてですか?」
「はい」
俺は頷く。
「仕事を探しに来ました」
受付嬢も頷いた。
「それでしたら冒険者登録が必要になります」
嫌な予感がした。
街に入るにも金。身分にも金。仕事にも金。
この街は証明が好きらしい。
「登録には?」
「銀貨一枚になります」
やっぱりか。
目を閉じる。
横から視線を感じた。
見なくても分かる。
ツムギだ。
『ほらね』と言いたげだった。
「前払いね」
銀貨が置かれる。
俺の前に。
当たり前みたいに。
貸しが増える。
また一つ。
正直、少しうんざりしていた。
受付嬢は銀貨を確認すると、二枚の紙を差し出した。
一枚は簡単な登録用紙。もう一枚は規約だった。
「お名前を」
「クレ」
「姓はありますか?」
少しだけ考える。
佐々木。
望実。
どちらも今は遠かった。
「ありません」
受付嬢は驚かない。
慣れていた。
たぶん、こういう人間は珍しくないのだろう。村を出たやつ。家を捨てたやつ。捨てられたやつ。過去を言いたくないやつ。そういうのがここへ来る。
「出身地は」
「ソリ村」
「保護者、保証人は」
「いません」
「問題ありません」
本当に問題ないらしかった。
そこは少し引っかかった。
問題がないわけではないはずだ。身元も薄い。保証もない。腕前も確認していない。それでも通る。
受付嬢は次に、小さな鉄のプレートを置いた。
「こちらへお名前を刻んでください」
「それだけですか?」
「はい。初回登録は簡易ですので」
簡易。
嫌な言葉だった。
試験はない。保証人もない。能力確認もない。
名前と、銀貨一枚。
それだけだった。
妙に簡単だった。
鉄へ名前を刻む。
クレ。
短い名前だった。
受付嬢はそれを受け取り、軽く確認し、後ろの箱へ入れる。次に木と金属を合わせた薄い札を差し出した。
「こちらが冒険者カードになります」
終わった。
本当に終わった。
俺はカードを受け取る。
軽い。
安っぽい。
それなのに、この一枚で街へ出入りできるらしい。
「紛失した場合は再発行料が必要です」
やっぱり金だった。
「登録後の死亡・失踪について、ギルドは責任を負いません。依頼中の負傷、後遺症、私物の破損についても同様です」
規約の一文を指で示される。
淡々としていた。
そこに感情はない。
毎日言っているのだろう。
俺は紙を見る。
文字は読める。
ありがたいことに読めるが、内容はあまりありがたくなかった。
死んでも知りません。
怪我しても知りません。
物が壊れても知りません。
代わりに、仕事は与えます。
そういうことだった。
周囲を見る。
受付。依頼書。冒険者。椅子。酒。汚れた靴。古い傷。新しい包帯。
次々と人が来る。登録する。仕事を受ける。出ていく。戻ってくるやつもいるし、戻らないやつもいるのだろう。
流れ作業みたいだった。
そして、ふと思う。
人手が欲しいのだ。
だから登録は簡単。
多少減ることも、最初から計算に入っている。
増える方が大事。
そんな仕組みに見えた。
気のせいかもしれない。
だが、妙に納得できた。
「ではクレ様」
受付嬢が紙束を揃える。
「簡単にご説明します。依頼は受付または掲示板から受注可能です。報酬は達成後、確認を経て支払われます。危険度に応じて受注制限がありますが、初回は低難度のみとなります」
「危険度?」
「ランクです」
受付嬢は壁の掲示を指した。
木板へ文字が並んでいる。初級。中級。上級。さらにその先もあるらしい。
「現在のクレ様は最下位登録になりますので、高難度依頼、護衛、討伐の一部は受注できません」
「つまり、死ににくいやつだけか」
「言い方としては、そうなります」
受付嬢は微笑んだ。
やはり目は笑っていない。
「ただし」
そこで少しだけ声が変わった。
「死なない依頼というものは、あまりありません」
その一言だけ、妙に正直だった。
俺は小さく息を吐く。
どうやら、本当の面倒はここかららしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
登録という行為は安心のために存在します。
けれど、その裏には別の理由もあります。
クレが感じた違和感は、今後も少しずつ物語の中で描いていく予定です。
次回、初めての依頼選びです。




