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2話 討伐証明

人間は分かりやすい生き物だと思っていました。


怒る。

笑う。

泣く。


少なくとも熊よりは。


どうやら、そうでもないらしいです。

「見に行ってみるか」


そう言ったのは俺だった。


川の向こう、木々の隙間で何かが光った。陽を跳ね返した金属の反射。人影。見えたのはそれだけだ。


それだけだったのに、足が止まった。


「クレ、やめとこうよ」


ツムギが小さく言う。


声が硬い。嫌なものを感じている時の声だった。


俺も、少しは感じていた。


だが、引かなかった。


「少しだけ」


そう返してしまう。


旅に出てから初めて見る、村の外の人間かもしれない。どんな顔で、どんな道具を持って、どう生きているのか。見ておきたかった。


それに――たぶん、少しだけ勘違いしていた。


グリムベアを倒した。生き残った。観察も、工夫も、通じた。


だから、見に行っても引き返せると思った。


自分の手が届く範囲だと、勝手に決めていた。


「近づきすぎるなよ」


ツムギに言う。自分にも言い聞かせるみたいな声だった。


川沿いの茂みを選んで進む。葉の陰から、少しずつ様子を窺う。


先に見えたのは靴だった。泥のついた革靴。その上に脛当て。腰に剣。背には弓。


男だった。


剣を持っている。


血がついていた。


いや、ついているなんて量じゃなかった。腕も、服も、腰も、赤い。


その足元に、何かが転がっている。


小さい。細い。緑色の皮膚。長い耳。


人間じゃない。


そう分かるのに、ひどく人に近く見えた。


動かない。


死体だった。


「……え」


思わず声にならない音が漏れる。


男はしゃがみ込んだ。腰の短剣を抜く。迷いなく、長い耳を根元から切り落とした。


躊躇がない。


何度もやった手つきだった。


肉を裂く音だけが妙に近く聞こえた。


ツムギの息が止まる。


横を見ると、顔色が変わっていた。青い。


「クレ」


震えた声だった。


「下がろう」


今度は俺もすぐ頷いた。


十分だ。見すぎた。


男の背には弓。腰には剣。しかも一人じゃない。少し奥、川向こうの木の陰にも、人の動く気配がある。


冒険者か。傭兵か。盗賊か。


分からない。


分かるのは、関わりたくないということだけだ。


「ゆっくり下がるぞ」


ツムギが小さく頷く。


一歩。


また一歩。


葉を踏まないように、枝を避けるように、視線を切らないように――


パキッ。


乾いた音が鳴った。


枯れ枝だった。


胸の奥が冷える。


男が顔を上げる。


目が合った。


それだけで足りた。


男の手が弓へ伸びる。早い。迷いがない。考える前に、もう引いている。


「――ッ!」


俺はツムギの腕を掴んだ。


「逃げるぞ!」


弦が鳴る。


次の瞬間、頬の横を何かが裂いた。熱い。遅れて、血が垂れる感覚が来る。


考えるより先に走った。


振り返らない。確認する意味がない。追われているかどうかを知るより、まず距離を取る方が先だ。


木の根を飛び越える。


低い枝を潜る。


息が切れる。肺が焼ける。


ツムギの手首が細い。引きすぎていないか気になったが、放す方が危なかった。


「クレ!」


後ろからツムギの声が飛ぶ。


「そっち、ぬかるんで――」


言い終わる前に、足が沈んだ。


川沿いの柔らかい地面だった。爪先が取られる。転びかけて、どうにか体勢を戻す。その間に速度が落ちる。


最悪だった。


だがツムギが先に抜ける足場を見つけた。


「石の上!」


言われるまま飛ぶ。


濡れた石。細い獣道。俺一人なら気づかなかった。ツムギが先に選んだ場所を、後ろからなぞるように走る。


しばらくして、斜面へ入る。


川音が遠ざかる。足跡も残りにくい。ようやくそこで、俺は足を止めた。


「……っ、は……」


喉が痛い。


呼吸がうまく入らない。頬の傷が脈打つ。


ツムギも近くの木へ手をついていた。肩が上下している。だが、声は出た。


「……馬鹿」


短かった。


その一言で十分だった。


「……ああ」


それしか返せない。


見に行けると思った。


見て、引けると思った。


違った。


指で頬を拭う。血がつく。浅い。けれど、浅かっただけだ。少しずれていれば目だった。首だった。俺じゃなく、ツムギに当たっていたかもしれない。


その想像が遅れてきて、胃の奥が冷えた。


「ごめん」


先に言う。


言い訳は浮かばなかった。


ツムギは荒い息のまま、怒ったような、泣きそうな顔で俺を見た。


「本当に馬鹿」


否定できなかった。


しばらく、互いに黙る。


風の音だけがする。鳥の声はない。


もう追ってきていないのか。あるいは、聞こえないだけか。


そう思った時だった。


「動くな」


背後から声が落ちた。


身体が固まる。


振り返るより先に、弓を引く音が聞こえた。


ゆっくり向く。


男がいた。


さっきの男だった。斜面の上。こちらより高い位置から弓を向けている。


血のついた革鎧。腰の短剣。剣。背の矢筒。


そして腰袋の口から、緑色の耳がいくつも覗いていた。


追いつかれた、というより、先に回られたのだと分かった。川沿いをまっすぐ逃げた俺たちより、地形を知っている相手の方が速かった。それだけのことだった。


男はしばらく俺たちを見て、それから眉をひそめた。


「……って、人じゃねえか」


間の抜けた声だった。


緊張が一瞬だけ崩れる。


「は?」


思わず声が出る。


男は弓を少し下げたが、完全には解かない。


「何やってんだ、お前ら」


「それはこっちの台詞だ」


本音だった。


男が呆れた顔をする。


「いや、ゴブリン狩りだが」


「ゴブリン?」


「知らねえのか?」


知らない。


見たこともない。聞いたこともない。


俺が黙ると、横でツムギが恐る恐る口を開いた。


「……聞いたことはある」


「聞いたことは?」


男の顔が本気で固まる。


「どんな田舎だよ」


失礼だった。


だが、たぶん事実でもあった。


男は頭を掻く。


「お前ら、冒険者じゃねえな?」


「違う」


「旅人か」


「そんなところだ」


男は小さく舌打ちして、腰袋から一本、緑色の耳をつまみ出した。こちらへ放る。


反射的に受け取る。


軽い。乾いている。まだ少し温い気がした。


「討伐証明だ」


男が言う。


「ゴブリンは耳を持って帰る。数を誤魔化さねえためだ」


耳を見る。


さっき見た短剣の動きが頭に戻る。切り落とす手つき。血の量。死体のそばにしゃがむ姿。


残虐に見えた。


たぶん、今も気分は悪い。


だがこの男にとっては、それが手順なのだと分かる。


数えるため。金に換えるため。報告するため。


人を殺したように見えた行為に、社会の理屈がついている。


「……」


喉の奥が少し詰まる。


知らないだけで、意味はあった。


意味があるから気持ち悪さが消えるわけではない。むしろ逆だった。


ルールのある気味悪さの方が、たぶん面倒だ。


男は俺たちの顔を見比べる。


「街に行くなら気をつけろ。ゴブリン見て突っ立ってたら、次は本当に死ぬぞ」


そう言って、弓を肩へ戻した。


「城壁都市ならこの先だ。門で変なこと言うなよ、面倒だからな」


男はそれだけ残して斜面を下っていく。


しばらく、俺もツムギも動かなかった。


手の中の耳を見る。


討伐証明。


その言葉だけが妙に残った。


森の中で生き物を殺すことより、その証拠を持ち帰る仕組みの方が、俺には少し理解しにくかった。


人間は面倒だ。


まだ街にも着いていないのに、もうそう思った。

第二章二話でした。


今回のテーマは「知らないことは怖い」です。


クレは観察が得意ですが、知識があるわけではありません。


だからゴブリンを知らない。

討伐証明も知らない。

冒険者の常識も知らない。


観察だけでは埋められない部分がある、という話でもあります。


また、グリムベア戦の成功で少しだけ生まれていた慢心も、今回で叩き折りました。


次回からは城壁都市。

クレにとって本当の意味での『人間社会』が始まります。

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