2話 理解
人間を理解したい。
そう思っていた少年は、死んだ。
そして目を覚ました先で、最初に出会ったのは三つ目のウサギと、一人の少女だった。
第二話です。
人影だった。
だが、すぐには安心しない。
三つ目のウサギがいる世界だ。
人型だからといって、人間だとは限らない。
俺は足を止めたまま、それを観察する。
距離はまだある。
細い身体。
長い髪。
手には籠らしきもの。
立ち方に無理がない。
少なくとも、今のところ腕は二本、脚も二本だった。
「……人、っぽいな」
小さく呟く。
確信は持てない。
だが、森で一人でいるよりはましだ。
危険でも、情報は得られる。
何も分からないまま彷徨う方が、たぶん面倒だ。
俺は慎重に歩き出した。
一歩。
また一歩。
相手もこちらに気付いたらしい。
ぴたりと足を止める。
当然だ。
森の中で、知らない男が突然現れたのだ。
俺でも警戒する。
逃げるか。
叫ぶか。
何か武器を構えるか。
そう思って見ていると、相手は動かなかった。
ただ、こちらを見ている。
俺も見る。
服装は素朴だった。
派手さはない。
動きやすさを優先した、仕事着のように見える。
籠の縁からは草か野菜の葉のようなものが覗いていた。
農作業帰りかもしれない。
そう考えて、少しだけ警戒を下げる。
少なくとも、いきなり斬りかかってくる兵士や盗賊には見えなかった。
風が吹く。
土の匂いが混じる。
相手の髪が揺れた。
女だった。
年齢は近そうだ。
十代後半くらいに見える。
顔立ちは整っているが、作り込んだ綺麗さではなく、日差しと風の中で育ったような、まっすぐな印象がある。
それでも、見惚れるより先に考える。
――言葉は通じるのか。
――敵意はあるか。
――人間か。
最後の一つだけ、妙に重かった。
この世界に来てから、まだ一度も“ちゃんとした人間”に会っていない。
目が三つあったり、牙が生えていたりしないだろうな、と自分でも失礼なことを考える。
やがて距離が縮まり、顔が見える位置まで来た。
目は二つだった。
耳も普通。
肌の色も、髪の質感も、少なくとも見慣れた人間と大きくは変わらない。
そこでようやく、肺の奥に溜まっていた息を吐く。
「よかった……」
思わず漏れた。
本当に、少しだけ。
女――少女は、そんな俺を見て首を傾げた。
その仕草があまりに自然で、逆に少し笑いそうになる。
人間だ。
たぶん、ちゃんと。
すると彼女は、まだ少し警戒を残したまま、それでも逃げずにこちらへ近付いてきた。
俺は動かない。
ここで慌てて手を振るのも不自然だし、下手に喋って刺激するのも危ない気がした。
無難に見える無害さを装う。
大事だ。
少女は数歩手前で止まった。
近くで見ると、やはり年は同じくらいに見える。
籠の中には見知らぬ野菜がいくつか入っていた。
指先には薄く土がついている。
農家の娘。
たぶん間違っていない。
そこまで観察してから、気付く。
相手も同じように、俺を見ていた。
服。
靴。
顔。
手。
立ち方。
知らない格好をした男が森の中に立っているのだから、そりゃ見るだろう。
沈黙が落ちる。
気まずい。
先に何か言うべきかと思う。
だが、何を?
こんにちは。
助けてください。
ここはどこですか。
候補は浮かぶ。
ただ、最大の問題は、そもそも言葉が通じるかどうかだった。
もし通じないなら、下手に喋っても警戒を強めるだけかもしれない。
俺が逡巡していると、少女が小さく息を吸った。
そして、ためらいがちに口を開く。
「……大丈夫?」
優しい声だった。
その一言で、頭が真っ白になる。
意味が分かった。
ちゃんと分かった。
聞いたことのない声。
知らない顔。
知らない森。
なのに、言葉だけは理解できた。
「え」
間抜けな声が出る。
少女が少しだけ目を丸くする。
しまった、と思った時にはもう遅い。
俺は慌てて口を閉じた。
どうする。
通じる。
少なくとも、相手の言葉は理解できる。
理由は分からない。
都合が良すぎる。
だが、この状況で一番ありがたい異常でもあった。
少女は不安そうにもう一度訊いた。
「けが、してない?」
今度はもっとはっきり分かった。
発音は少し違う気がする。
イントネーションも、微妙にずれている。
けれど意味は取れる。
理解できる。
その事実に、胸の奥が妙にざわついた。
異世界かもしれない森の中で、
最初に通じたものが、言葉だった。
人間は分からない。
でも、分かりたいと思っていた。
その俺が、知らない世界で最初に受け取ったのが、
知らない誰かの「大丈夫?」だった。
「……ああ」
少し遅れて、返事をする。
ちゃんと声になった。
「多分。大丈夫」
少女の肩から、わずかに力が抜けたのが分かった。
露骨なくらい、ほっとした顔をする。
その反応に、今度はこっちが少し驚く。
見ず知らずの相手だ。
怪しんで当然だし、放っておかれても文句は言えない。
それなのに、この少女は、まず俺の無事を気にした。
善人なんだろうか。
それとも、困っている人間を見たらそうするのが、この世界では当たり前なんだろうか。
分からない。
分からないが、少なくとも嫌な気分はしなかった。
少女は籠を抱え直して、改めて俺を見る。
「森で倒れてたの?」
倒れてはいない。
起きたらここにいた。
そう言って通じるだろうか。
いや、通じたとしても、信じるとは思えない。
死んで異世界に来ました、なんて、俺でも信じない。
答えを選ぶ。
観察は得意だ。
だが、自分を説明するのは苦手だった。
「……気付いたら、ここにいた」
結局、嘘ではない言い方にした。
少女は少し考えるように目を伏せる。
露骨に疑うでもなく、かといって鵜呑みにするでもない。
その間が妙に人間らしくて、少し見てしまう。
信じたい気持ちと、警戒する理性が同時にある顔だった。
いいな、と思った。
その矛盾は、すごく人間だ。
「それ、覚えてないってこと?」
「まあ、そんな感じ」
「……そっか」
少女は困ったように眉を下げる。
その表情を見て、ようやく実感する。
助かったのかもしれない。
まだ何も解決していない。
ここがどこかも知らない。
なぜ生きているのかも分からない。
それでも、とりあえず話の通じる相手がいる。
それだけで、生存率はかなり違う。
少女は少しためらってから、口を開いた。
「村、来る?」
短い言葉だった。
けれど十分だった。
保護の提案だと分かる。
同時に、警戒もする。
村がある。
つまり人がいる。
つまりルールがある。
責任も面倒も、そこから発生する。
だが、断って森に残る理由はなかった。
合理的に考えて、乗るべきだ。
たぶん。
「……助かる」
そう言うと、少女はほんの少しだけ笑った。
派手じゃない。
でも、気を抜かせる笑い方だった。
「よかった。じゃあ、来て」
彼女はそう言って踵を返す。
俺は一歩遅れて、その背中を見る。
細い。
小柄だ。
なのに、不思議と迷いがない。
慣れた足取りで森を進んでいく。
この世界で生きている人間の背中だった。
俺はそのあとを追いながら、考える。
人間は分からない。
でも今、少しだけ思った。
理解したい、ではなく。
この少女のことを、もう少し知りたい、と。
「……名前、聞いてもいいか」
背中に向けてそう言うと、少女は振り返る。
一瞬きょとんとしてから、当たり前みたいに答えた。
「ツムギ」
それが、異世界で最初に知った人間の名前だった。
第二話を読んでいただきありがとうございます。
この回は戦闘も事件もありません。
ただ、クレが「生きるための選択」をした回です。
そしてツムギとの出会いでもあります。
クレは人間を理解したいと思っていますが、実際には人間との距離感があまり上手ではありません。
そんな彼が、この世界で最初に出会った人間がツムギでした。
次回は村へ向かいます。
少しずつ、この世界の日常が見えてきます。




