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15話 旅立ち

逃げることは悪いことじゃない。


少なくとも、クレはそう思っている。


だからこれは、旅立ちの話であり、逃亡の話でもある。


第一章最終話です。

グリムベア襲撃から数日が経った。


村は少しずつ落ち着きを取り戻していた。


壊れた柵は直され、

荒れた畑も整えられ、

子供たちもまた走り回っている。


見た目だけなら、もう元通りだった。


平和だった。


少なくとも、表面上は。


「クレ!」


声を掛けられる。


振り返ると、村人が手を上げていた。


「この前は助かったよ」


そう言って笑う。


俺も軽く頭を下げる。


「……どうも」


それだけだった。


会話は続かない。

続けられない。


最近、似たような言葉を何度も聞く。


助かった。

ありがとう。

すごかった。

頼もしかった。


悪くない、と思う自分もいる。


もし本当に、最初から村を守るために動いていたなら。

もし本当に、英雄みたいな人間なら。


もう少し素直に受け取れたのかもしれない。


だが、事実は違う。


俺は見つけていた。


ニーラビットの死骸を。

人の腕を。

血痕を。

倒木を。


それでも、言わなかった。


一人で理解しようとした。

一人で確かめようとした。

自分が納得してから話そうとした。


結果、グリムベアは村へ来た。


幸い、誰も死ななかった。


死ななかっただけだ。


怪我人は出た。

恐怖も残った。

村の空気だって、一度壊れた。


全部、なかったことにはならない。


「……」


荷物をまとめる。


服。

水筒。

少しの食料。


大した量じゃない。


だが、ここを出るには十分だった。


「もともと部外者だしな」


小さく呟く。


言い訳だった。


自分でも分かる。


背負いきれないのだ。


感謝も。

期待も。

向けられる眼差しも。


居心地が良い。


認めたくないが、本当にそう思う。


温かい飯がある。

屋根がある。

名前を呼ぶ相手がいる。


そんなもの、前の世界では別に珍しくもなかったはずなのに。

今はそれが、妙に重い。


だから、ここにいてはいけない気がした。


逃げる。


いつも通りだ。


昔からそうだった。


面倒なことから距離を取る。

背負えないものを背負う前に離れる。


逃げるのは得意だった。


『逃げるは恥だが役に立つ』


そんな題名のドラマがあった気がする。


少しだけ笑う。


そんな綺麗な話じゃない。


でも、役には立つらしい。


少なくとも、今の俺には。



早朝だった。


一睡もしていない。


眠れなかった。


荷物を背負う。

音を立てないように扉を開ける。

冷たい空気が流れ込む。


静かに家を出る。


村の出口まで歩く。


そこで足が止まった。


振り返る。


静かな村だった。


畑がある。

家がある。

道がある。

まだ朝靄の残る、見慣れた景色だった。


見慣れた。


そう思った時点で、もう駄目なのかもしれない。


居心地が良い。


認めたくはないが、本当にそう思う。


だから手放す。


仕方がない。


ここにいたら、きっと駄目になる。


甘える。

残る。

期待される。

また何かを見落として、それでもここにいたくなる。


そうなる前に、離れた方がいい。


「……」


息を吐く。


ああ、少し泣きそうだ、と思う。


情けない。


自分で決めたくせに、勝手に惜しくなっている。


俺は前を向く。


歩こうとする。


「……クレ」


足が止まった。


聞き間違いじゃない。

幻想でもない。


聞き慣れた声だった。


振り返らない。


振り返ったら駄目な気がした。


だから前を向いたまま、声を絞り出す。


「ごめん」


喉が少し掠れる。


「さよなら」


泣いている顔は見せられない。


恥ずかしいから。


だから歩く。


一歩。

また一歩。


逃げるみたいに。


「待って!!」


ツムギの声が背中に刺さる。


無駄だ、と思う。


引き止められても行く。

もう決めた。

振り返らない。


振り返ったら、たぶん弱くなる。


だから歩く。


「私もいく」


足が止まった。


聞き間違いかと思った。


「私もいく」


もう一度。


今度ははっきり聞こえた。


「……」


理解できない。


俺はゆっくり振り返る。


ツムギがいた。


荷物を背負っている。

見慣れた鞄。

見慣れた服。

見慣れた顔。


全部見慣れている。


だから余計に意味が分からなかった。


「何してるんだ」


思わず聞く。


「旅支度」


「それは見れば分かる」


「じゃあ聞かなくていいじゃん」


話が進まない。


「そういう意味じゃなくて」


頭を押さえる。


「なんで?」


ツムギは少しだけ首を傾げた。


本当に不思議そうに。


「クレが行くから」


「意味が分からん」


即答だった。


ツムギは少し考える。


それから、困ったように笑った。


「私は分かるよ?」


意味が分からない。


本当に分からない。


グリムベアより分からない。

森より分からない。

人間全体より、目の前のこの女の方が分からなかった。


「いや、待て」


ようやく言葉を繋ぐ。


「お前、村はどうする」


「村は村だよ」


「畑は」


「ミナ婆たちに頼んできた」


「早いな」


「起きてたから」


行動が早すぎる。


「なんでそこまで」


ツムギは少し黙った。


ふざけた返しが来るかと思ったが、違った。


真っ直ぐこっちを見る。


「クレ、一人で行こうとしてたでしょ」


「……そうだな」


「そういうとこ、嫌いじゃないけど嫌」


意味が分からない。


だが、たぶん大事なことを言っているのは分かった。


ツムギは続ける。


「クレって、勝手に抱えて、勝手にいなくなろうとするから」


言い返せなかった。


その通りだった。


「村のこと、責任感じてるんでしょ」


「感じてないとは言わない」


「なら、なおさら一人で行っちゃだめ」


「なんでそうなる」


「一人だと、また勝手に決めるから」


痛いところだった。


俺は黙る。


ツムギは一歩近付いてくる。


「逃げるのはいいよ」


思わず顔を上げる。


ツムギは真面目な顔だった。


「でも、一人で逃げなくてもいいでしょ」


「……」


言葉が出ない。


逃げるな、と言われると思っていた。


残れ、と。

責任を取れ、と。

ちゃんと向き合え、と。


そういう正しいことを言われると思っていた。


だが、違った。


逃げていい、と言われた。


その上で、一人じゃなくていいと言われた。


そんな選択肢は考えていなかった。


ツムギは少しだけ笑う。


「私、クレほど変じゃないけど、ちょっと変だから」


「自覚あるのか」


「あるよ」


「じゃあやめとけ」


「やだ」


即答だった。


強い。


この手の時のツムギは妙に強い。


「危ないかもしれないぞ」


「知ってる」


「面倒だぞ」


「知ってる」


「俺は良いやつじゃない」


「それも知ってる」


全部返された。


しかも、少しも迷わずに。


「……なんでそこまで」


最後にもう一度だけ聞く。


ツムギは少しだけ考えて、それから言った。


「放っておきたくないから」


単純だった。


単純すぎて、逆にずるい。


「クレって、たぶん自分で思ってるより、ちゃんと困ってるし」


ぐさりと来る。


「あと」


ツムギは少しだけ息を吸ってから続けた。


「一緒にいたいし」


「……」


今度こそ、何も言えなかった。


風が吹く。


村の朝の匂いがする。


見慣れた景色の前で、俺だけが取り残されたみたいに黙っていた。


ツムギはそんな俺を見て、少しだけ笑う。


「で、どうするの?」


選択肢は、もうあまりなかった。


一人で出ていく。

ツムギを置いていく。

無理やり帰らせる。


どれもたぶん、できなくはない。


でも、もう分かってしまった。


ここで強く拒めば、俺はたぶん本当に泣く。


それはさすがに嫌だった。


「……好きにしろ」


やっと出た言葉は、それだった。


投げやりみたいで、少し格好が悪い。


だが、ツムギは嬉しそうに笑った。


「うん。好きにする」


返事が軽い。


でも、その軽さに少しだけ救われる。


完全に理解はできない。


たぶん、これからもしばらく分からない。


それでも。


一人で逃げるつもりだった道に、もう一つ足音が混じるのは、思ったほど悪くなかった。


第一章を読んでいただきありがとうございました。


クレは逃げました。


責任から。

期待から。

居心地の良さから。


でも今回は、一人ではありません。


第二章から、二人の旅が始まります。

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