14話 逃げたい
逃げることは悪いことじゃない。
少なくとも、クレはそう思っている。
だからこれは、勇気の話ではない。
第十四話です。
身体が先に動いた。
転んでいた子供の腕を掴む。
引くというより、ほとんど突き飛ばすみたいに押しやる。
綺麗な動きじゃない。
不器用だ。
たぶん優しくもない。
だが、それでいい。
子供は地面を転がって、それから泣きながら村人の方へ走った。
それで十分だった。
「……」
グリムベアがこちらを見る。
黄色い瞳。
濁った牙。
黒い毛皮。
血の臭い。
知っている。
人を食った熊は味を覚える。
昔、テレビか何かで見た。
本当かどうかは知らない。
でも今この瞬間、その話は妙に現実味を持っていた。
なら、こいつもそうなのかもしれない。
視線が合う。
逸れない。
嫌な予感しかしない。
一歩下がる。
グリムベアが一歩近付く。
また下がる。
また近付く。
距離が変わらない。
最悪だった。
逃げられない。
逃げれば追う。
見れば分かる。
こいつはもう、俺を獲物として見ている。
なら、俺にできるのは一つしかない。
逃げる。
振り下ろされる爪から。
牙から。
巨体から。
ただひたすら、生きるために。
夕方だった。
空が赤い。
地面も赤い。
返り血のせいなのか、夕焼けのせいなのか、もうよく分からない。
「クレ!!」
ツムギの声が聞こえる。
振り返らない。
振り返る余裕がない。
グリムベアの爪が目の前を通る。
風圧だけで身体が揺れる。
転がる。
起きる。
また走る。
痛い。
苦しい。
怖い。
だが、生きている。
だから逃げる。
その時だった。
足が何かに引っかかる。
転ぶ。
地面へ倒れる。
最悪だった。
頭上に影が落ちる。
グリムベア。
終わった、と思った。
反射的に顔を上げる。
そこにあった。
鎌だった。
農作業用の鎌。
誰かが落としたのだろう。
「……」
無傷だった。
完全に、ではない。
擦り傷も痛みもある。
だが、まだ動ける。
理由は分からない。
いや、一つだけ、頭をよぎるものはあった。
心拍強制。
あの、理解できないスキル。
使いたくない。
本当に使いたくない。
強いからじゃない。
危なそうだからでもない。
分からないから嫌なんだ。
原理が分からない。
代償が分からない。
どこまで動くかも分からない。
そんなものを信用したくない。
でも。
逃げられない。
今も怖い。
本気で怖い。
だが、逃げた後の方がもっと怖かった。
村が壊れる。
ツムギが死ぬ。
子供が死ぬ。
それを知ったまま生きる。
そっちの方が嫌だった。
鎌を握る。
グリムベアを見る。
不思議と、恐怖が少し薄れていた。
覚悟じゃない。
諦めに近かった。
もうこれしかない、と分かってしまった時の静かさだった。
「頼む」
小さく呟く。
「ほんの少しだけ、動いてくれ」
心拍強制。
発動する。
ドクン。
心臓が跳ねる。
背筋が凍る。
思い出す。
森で試した時のこと。
理解できなかった力。
身体の軽さ。
吐き気。
怖かった感覚。
また、ああなるのかと思った。
それでも、グリムベアは待ってくれない。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が加速する。
血液が全身を走る。
身体が熱い。
視界が鮮明になる。
嫌だった。
気持ち悪い。
なのに、身体は動く。
この矛盾が本当に嫌だった。
「グァアアア!!」
グリムベアが吠える。
爪が振り下ろされる。
「くそ!!」
前へ出る。
逃げない。
距離を詰める。
懐へ潜り込む。
グリムベアは大きい。
大きい相手は、近過ぎるものを殺しにくい。
たぶん。
きっと。
そうであってくれ、と思いながら動く。
爪が頭上を抜ける。
風圧が髪を揺らす。
重い。
圧倒的に重い。
死を感じる。
それでも、止まったら終わる。
俺は全力で地面を蹴る。
横へ抜ける。
頭上に重力を感じる。
背中に風を感じる。
次の瞬間、グリムベアの巨体が地面へ叩きつけられた。
倒れた。
完全には崩れていない。
だが、一瞬だけ体勢が沈んだ。
そこしかなかった。
頭。
そこだけ、柔らかい土みたいに見えた。
耕せる、と思った。
「っ、ふ!」
鎌を振り下ろす。
一度。
浅い。
二度。
血が飛ぶ。
三度。
手が痺れる。
それでも止めない。
耕すみたいに。
土を割るみたいに。
固い表面の先を、無理やり抉るように。
何度も。
何度も。
何度も。
グリムベアが暴れる。
巨体が揺れる。
腕が掠る。
肩に衝撃が走る。
痛い。
でも、止まったら死ぬ。
だから振る。
理解とか理屈とか、もうそこまで考えていなかった。
ただ、生き残るために。
やがて。
グリムベアの動きが鈍る。
吠え声が途切れる。
最後に一度だけ大きく痙攣して、それきり動かなくなった。
静かだった。
風だけが吹いている。
「……」
心拍強制が切れる。
同時に、身体から力が抜けた。
膝が笑う。
右腕がうまく上がらない。
足も痛い。
息も苦しい。
視界も揺れる。
最悪だった。
「一回で、これか」
小さく呟く。
釣り合わない、と思う。
強いのかもしれない。
使えれば便利なのかもしれない。
でも、こんなものを好きにはなれない。
戦うのは嫌いだ。
必要じゃないなら、したくない。
なのに、この力は必要な時ほど雑に強い。
だから余計に気持ち悪かった。
返り血が頬を伝う。
村人たちの声が聞こえる。
ツムギの声も聞こえる。
だが、上手く聞き取れない。
何を言っているのか分からない。
ただ、こっちへ向かってきているのは分かる。
その中で、一つだけ、はっきりしていることがあった。
俺は勝ったんじゃない。
生き残っただけだ。
選んで、逃げられなくて、仕方なく手を汚して。
その結果、まだ立っているだけだ。
広場の真ん中。
そこにいたのは、英雄でも救世主でもない。
返り血を浴びて、息を切らした、ただの男だった。
第十四話を読んでいただきありがとうございます。
クレは勝ったわけではありません。
逃げられなかっただけです。
そして、守りたかっただけです。
次回『旅立ち(逃げ)』




