12話 怠る
危険を見つけた時、人は二つの選択をする。
誰かに伝えるか。
自分で確かめるか。
第十二話です。
眠れなかった。
当然だった。
人の腕を見た。
しかも昨夜だ。
忘れられるわけがない。
目を閉じても浮かぶ。
月明かりに照らされた白さ。
血の臭い。
森の静けさ。
朝になっても、頭の奥に残っていた。
「クレ?」
ツムギが不思議そうにこっちを見る。
朝食の支度をしながら、少し眉を寄せた。
「顔色悪いよ」
「そうか」
多分、そうなのだろう。
自覚はあった。
身体が重い。
眠れていないのだから当然だ。
それ以上に、意識の一部がずっと森へ残っている感じがした。
だが。
人の腕を見た、とは言わなかった。
言えなかった。
理由は自分でも少し分かっている。
確信が欲しかった。
人の腕。
血痕。
ニーラビットの死骸。
全部繋がっているように見える。
だが、まだ断定はできない。
そう思った。
だから黙った。
今思えば、その時点で言うべきだったのだろう。
確信なんていらなかった。
危険だと思った時点で、共有するべきだった。
でもその時の俺は、まだ一人で理解しようとしていた。
畑に出る。
鍬を持つ。
土を耕す。
身体を動かす。
だが、集中できない。
頭の中は森のことばかりだった。
あの腕は誰のものか。
何が襲ったのか。
どこまで近付いてきているのか。
考えても答えは出ない。
出ないのに、考えるのをやめられない。
ツムギが何か話していた気がする。
半分も聞いていなかった。
「クレ」
「なんだ」
「聞いてないでしょ」
正解だった。
俺は手を止める。
「ごめん」
素直に謝る。
ツムギは少し呆れた顔をした。
「変な人」
いつもの言葉だった。
だが、今日は少しだけ刺さる。
悪気がないのは分かっている。
それでも、今日は少し申し訳なかった。
隠し事をしているからだろう。
夕方になる。
作業を切り上げて、俺は立ち上がる。
「どこ行くの?」
ツムギが聞く。
「森」
「また?」
「また」
ツムギは露骨に嫌そうな顔をした。
最近ずっとそうだ。
それでも止めはしない。
信頼なのか。
諦めなのか。
あるいは、俺が止まらないと知っているのか。
よく分からない。
俺は道具を置いて、森へ向かった。
昨日の場所へ行く。
血痕。
ニーラビットの死骸。
人の腕。
全部そのままだった。
誰かが片付けた形跡はない。
新しく荒らされた様子もない。
ただ、そこにある。
昨日見たものが、夢でも見間違いでもなかったと、改めて証明するみたいに。
「……」
しゃがむ。
見る。
血の量が多い。
腕一本では説明しにくい量だった。
周囲の草にも飛び散っている。
人間。
ほぼ確定だった。
しかも、それだけじゃない。
目を凝らすと、他にも痕跡が見える。
引きずられた跡。
大きな足跡。
木の幹についた爪痕。
削れた樹皮。
昨日の夜は暗くて見落としていたらしい。
「大きいな」
独り言が漏れる。
大きい。
明らかに。
ニーラビットを襲うだけのサイズじゃない。
人間も襲える。
いや、襲った。
それがもう事実として目の前にあった。
足跡の幅。
木についた傷の高さ。
倒れた草の範囲。
どれも小さくない。
「……」
報告するべきか。
考える。
村へ戻るべきか。
今すぐ。
頭ではそう思う。
これ以上一人で見るべきじゃない。
見たものを持ち帰って、ツムギに話して、村の大人にも伝える。
普通に考えれば、それが正しい。
だが。
視線が止まる。
血痕が続いていた。
奥へ。
さらに奥へ。
「少しだけ」
確認してからでいい。
そう思った。
それが間違いだった。
一人で理解しようとした。
一人で確かめようとした。
一人で結論を出そうとした。
報告を後回しにした。
危険を共有するより先に、自分の納得を優先した。
それは怠慢だった。
結果として、俺はさらに森の奥へ進む。
血痕は途切れそうで、途切れない。
草が倒れ、枝が折れ、何か重いものが通った跡だけが残っている。
空気が変わる。
森の匂いに混じって、獣臭さが濃くなる。
嫌な汗が背中を伝う。
それでも進んでしまう。
そして、見つけた。
木だった。
倒れている。
一本や二本じゃない。
何本も。
根元から、無理やりへし折られたみたいに倒れていた。
「……」
立ち尽くす。
風で倒れたわけじゃない。
分かる。
こんな折れ方はしない。
幹が裂けている。
押し倒したというより、叩き壊したような跡だった。
何かがいる。
大きな何かが。
嫌な汗が流れる。
初めてだった。
帰りたい、と思ったのは。
怖い、ではなく、帰りたい。
今すぐ村に戻って、何も見なかったことにしたい。
そんな考えが、かなり本気で頭をよぎる。
だが。
その時にはもう遅かった。
俺は理解してしまったからだ。
この森の異変は、勘違いじゃない。
ニーラビットが減ったのも。
森が静かだったのも。
人が死んだのも。
全部、同じものに繋がっている。
しかもそれは、想像していたよりずっと大きい。
ここにいてはいけない。
ようやくそう判断した時には、背筋が冷え切っていた。
第十二話を読んでいただきありがとうございます。
クレは観察する人間です。
だからこそ、自分で見て、自分で理解しようとしました。
それが正しいかどうかは、まだ分かりません。
次回『グリムベア』




