こんばんは、君の名前を知った日
ラムネを飲み終えたあとも、しばらく公園を歩いた。
さっきまでの会話の余韻が、まだ少し残っている。
あの違和感。
同じものを感じている、という事実。
それが、妙に心地よかった。
「そろそろ帰る?」
あの人が言う。
空を見ると、少しだけ暗くなり始めていた。
「うん」
頷いて、来た道を戻る。
駅までの道は、行きよりも静かだった。
会話がないわけじゃない。
でも、どこか落ち着いている。
無理に話さなくてもいい、みたいな空気。
それが自然にできていることに、少しだけ驚く。
駅の改札が見えてくる。
人の流れが増えて、現実に引き戻される感じがした。
「あ」
あの人が、小さく声を出す。
「どうした?」
振り向くと、少しだけ困ったような顔をしていた。
「……連絡先、さ」
一瞬、言葉を探すように間が空く。
「名前、ちゃんと登録してなかったかも」
そう言って、スマホを見せてくる。
そこには、僕の連絡先。
でも、名前の欄は空白のままだった。
「ほんとだ」
思わず少し笑う。
「なんて入れとく?」
軽く聞く。
すると、あの人は少しだけ考えてから、
「じゃあ……ちゃんと教える」
と、言った。
改札の前。
人が行き交う中で、少しだけ時間がゆっくりになる。
「白石。紬」
静かな声。
でも、不思議とよく響いた。
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥が、強く揺れた。
――つむぎ。
頭のどこかで、その音が反響する。
でも、意味までは届かない。
「……どうしたの?」
あの人――紬が、少しだけ首をかしげる。
僕はすぐに首を振った。
「いや、いい名前だなって思って」
とっさに出た言葉。
嘘ではない。
でも、それだけでもない。
紬は少しだけ照れたように笑った。
「そっちは?」
聞き返される。
当然の流れ。
でも、なぜか少しだけ間ができた。
自分の名前を言うだけなのに。
「……朝倉。湊」
口に出す。
その瞬間。
また、胸の奥がざわついた。
――みなと。
どこかで、呼ばれたことがあるような響き。
でも、それがいつなのか、誰なのか。
やっぱり、思い出せない。
「へえ」
紬が小さく頷く。
「なんか、しっくりくるね」
その一言。
それだけで、心臓が少しだけ跳ねた。
「……それ、どういう意味?」
思わず聞いてしまう。
紬は少しだけ視線を逸らして、
「なんとなく」
とだけ言った。
それ以上は続けない。
でも、その“なんとなく”が、妙に引っかかる。
お互いに、同じような感覚を持っている。
そんな気がしてならない。
「じゃあ、登録するね」
紬がスマホに視線を落とす。
画面に、自分の名前が入力されていく。
それを見ていると、なぜか少しだけ実感が湧いた。
“あの人”じゃなくて、“紬”になった。
それだけのことなのに。
距離が、ほんの少し変わった気がする。
「はい、これでちゃんと覚えた」
スマホを軽く振って見せてくる。
「忘れないようにね」
冗談っぽく言う。
「それはこっちのセリフ」
軽く返す。
自然に笑い合う。
その瞬間。
また、ほんの一瞬だけ。
――小さな手。
――名前を呼ぶ声。
何かがよぎる。
でも、やっぱり掴めない。
「……じゃあ、またね」
紬が言う。
改札の向こうに、一歩下がる。
「また」
短く返す。
その言葉に、一瞬だけ迷いが混ざる。
でも、もう違和感はなかった。
自然に出てきた言葉だった。
紬が軽く手を振る。
それに応えて、僕も手を上げる。
人の流れの中に、紬の姿が紛れていく。
見えなくなるまで、なんとなく目で追っていた。
やがて完全に見えなくなってから、ゆっくりと息を吐く。
「……紬」
小さく名前を口にする。
その響きが、胸の奥に落ちる。
懐かしいような。
でも、新しいような。
不思議な感覚。
ポケットの中でスマホが震える。
取り出して、画面を見る。
『今日はありがと。またね』
紬からのメッセージ。
さっき別れたばかりなのに。
少しだけ笑う。
『こちらこそ。また』
短く返す。
送信して、空を見上げる。
夜が少しだけ深くなっていた。
――また。
その言葉が、頭の中で静かに響く。
初めてのはずなのに。
どこかで、何度も繰り返してきたような。
そんな気がしていた。
でも。
その理由は、まだわからない。




