七 裏帳簿
その夜、真薫は式部省の怪異雑掌所で報告書を書いていた。
硯で墨をすり、筆を取る。
——藤原行斉邸、怪異の報告。
真薫は、しばらく考えた。
そして、筆を進めた。
——侍女三名が病に倒れる。一名死亡。
——調査の結果、井戸への毒物混入が判明。
——犯人は行斉の子息、行季。
——動機は、側室への憎悪。
真薫は、そこで筆を止めた。
これが、真実だ。
しかし——。
翌朝、兼遠が怪異雑掌所にやってきた。
「やあ、真薫くん。報告書、できた?」
「はい」
真薫は、書き上げた報告書を差し出した。
兼遠は、ざっと目を通した。
「ふーん。毒物混入ね。犯人は行季様か」
兼遠は、あっけらかんと言った。
「これ、書き直して」
「……は?」
「だから、書き直してよ。”物の怪のせい”って」
真薫は、絶句した。
「しかし、これは事実です」
「事実はいいんだよ」
兼遠は笑った。
「行斉様は、式部大輔だよ? その息子が毒殺未遂なんて、大問題じゃん」
「だからこそ、報告すべきでは」
「いやいや」
兼遠は手を振った。
「行斉様は、もう自分で処理するって言ってるから。行季様を謹慎させて、終わり。これで丸く収まるんだよ」
「しかし——」
「真薫くん」
兼遠の声が、わずかに低くなった。
「君、まだわかってないの?」
「……」
「この仕事は、真実を暴くことじゃない。“都合よく処理”することなんだよ」
兼遠は、報告書を真薫に返した。
「はい、書き直し。“物の怪のせいで侍女が病気になった。陰陽師が祓いをして、解決しました”。これでいいから」
真薫は、突き返された報告書を受け取った。
手が、震えていた。
「真薫くん」
兼遠は、少しだけ優しい声で言った。
「無茶すんなよ。君、また左遷されたいの?」
「……いえ」
「じゃ、よろしくね」
兼遠は、手を振って出て行った。
真薫は、一人残された怪異雑掌所で、報告書を見つめた。
——藤原行斉邸、怪異の報告。
真薫は、深く息を吐いた。
そして、新しい紙を取り出した。
——侍女三名が病に倒れる。一名死亡。原因は物の怪。陰陽師が祓いを行い、解決。
端正な文字で、そう記した。
しかし、真薫は別の紙にも書いた。
——真相。井戸への毒物混入。犯人は行季。動機は側室への憎悪。証拠、附子入りの袋。
その紙を、真薫は手箱の奥深くに隠した。
裏帳簿。
真実の記録。
「……またか」
真薫は、小さく呟いた。
「また、嘘をついた」
数日後、真薫は定明と再び顔を合わせた。
「やあ、真薫殿」
定明は、いつもの軽い調子で笑った。
「報告書、読みましたよ」
「……ええ」
「“物の怪のせい“、だそうで」
定明の声に、皮肉の色はなかった。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
「ええ」
真薫は、目を逸らした。
「でもね」
定明は続けた。
「真相は、あなたが見つけた通りなんでしょ」
「……」
「僕も陰陽師として報告書書きました。“物の怪を祓いました”って。でも実際には、何も祓ってない。だって、最初からいなかったんですもん」
定明は、苦笑した。
「僕らの仕事って、こういうもんなんでしょうね」
「定明殿は……」
真薫は訊いた。
「それで、いいのですか」
「いいとは思わないですよ」
定明はあっさり答えた。
「でも、僕ら下っ端には、真実を明らかにする力なんてないじゃないですか」
「……」
「真薫殿」
定明は、真薫を真っ直ぐに見た。
「あなた、真実を記録してますよね」
真薫は、息を呑んだ。
「……なぜ」
「わかりますよ」
定明はにこりと笑った。
「あなたみたいな人は、嘘だけついて終わりにはできない。絶対どこかに、本当のことを書き残してる」
定明は、真薫の肩を軽く叩いた。
「それでいいんだと思います。いつか、その記録が役に立つ日が来るかもしれない」
「定明殿……」
「お互い、できることをやりましょう」
定明は明るく笑った。
「また一緒に仕事できるの、楽しみにしてますから」
真薫は、式部省の怪異雑掌所に戻った。
御簾の隙間から、冬の陽が細く差し込んでいる。
真薫は、手箱を開けた。
中には、二つの裏帳簿。
維時の事件。
行斉邸の事件。
二つの真実が、そこに記されている。
「いつか……」
真薫は呟いた。
「いつか、この記録が役に立つ日が来る」
そう信じて、真薫は手箱を閉じた。




