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式部省の呪詛係  作者: 浮田小葉子
第七章 見えぬ糸
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九 犠牲の名

 数日後、真薫(ちかゆき)は再び左大臣邸を訪れた。

 萩野の容態を確かめるためだった。


 次兄、実薫(さねゆき)がこの件に関わっていると知った以上、知らぬふりをすることはできなかった。

 兄の行いを止められなかったとしても、その結果から目を逸らさぬことくらいは、弟である自分の務めだと、真薫は思っていた。


 潔子(ゆきこ)が、真薫を迎えた。


 以前よりも、顔色が落ちている。

 屋敷に漂う沈鬱さが、そのまま彼女に染みついているようだった。


「萩野は……まだ、目を覚ましません」


 潔子の声は、低く沈んでいた。


「そうですか……」


 真薫は短く応え、萩野の局へと案内された。


 萩野は、相変わらず(しとね)に横たわっていた。

 目を閉じ、静かに呼吸している。

 生きていることだけが、辛うじて分かる。


 ときおり、唇が動く。


「……くろい……。……こわい……」


 それは、夢とも現ともつかぬ声だった。

 か細く、弱々しく、助けを求めるでもなく、ただ零れる。


 真薫は、褥の傍にひざまずき、萩野を見下ろした。


(この人は、犠牲にされた)

(道顕様の策略の、ただの駒として)


 拳を握る。

 爪が、掌に食い込む。


(もしかしたら、兄上の行いで――)


 考えが、そこで途切れた。


「萩野……」


 潔子が、そっと萩野の手を取った。

 その指先は、祈るように震えている。


 潔子は、何も知らない。

 いや、知りようがない。


 だからこそ、その声は純粋で、痛ましかった。


「私のせいなの……?」


 潔子の声が、震えた。


「私が、入内しようとしているから……だから、お前が……」


 言葉が続かず、涙がぽろぽろと落ちる。


「私が、諦めれば……萩野は、こんなことには……」


「潔子様」


 真薫は、はっきりと声をかけた。


「あなたのせいではありません」


 潔子は、顔を上げる。


「でも……」

「これは、政治の問題です」


 真薫は、感情を抑え、淡々と告げた。


「……忌々しいことですが」


 そして、視線を逸らさず続ける。


「あなたが入内を諦めても、おそらくは別の形で攻撃が続くでしょう」


 潔子は、言葉を失った。


「だから」


 真薫は、静かに言った。


「あなたは、自分の道を進んでください」


 潔子は、まっすぐに真薫を見た。

 涙に濡れた眸は揺れている。

 それでも、その奥に宿る意志は、揺れていなかった。


「……はい」


 潔子は、小さく頷いた。


 それは、誰かの犠牲の上に立つことを、引き受けるという決意だった。


 真薫が左大臣邸を辞そうとしたとき、源基隆(みなもとのもとたか)本人に呼び止められた。


「式部省の真薫殿か」


「はい」


 真薫は、深く頭を下げた。


「左大臣様」


 源基隆は、五十代の、品のある男だった。

 だが、その眼差しには、柔らかさよりも覚悟が宿っている。


「萩野のこと、ありがとう」


「いえ……」


 真薫は、言葉を失った。

 何も、できていない。


 源基隆は、そんな真薫をじっと見つめた。


「この事件の背後に、何があるか」


 静かに問いかける。


「君も、わかっているだろう」


「……はい」


「道顕の策略だ」


 その名を、ためらいなく口にする。


「潔子の入内を阻止するためのものだ。――しかし、私は諦めない」


 源基隆の目が、鋭く光った。


「潔子は、必ず入内させる。萩野の犠牲を、無駄にはしない」


 その言葉には、怒りよりも、決意があった。


 真薫は、源基隆を見た。

 そこにあるのは、権力者の野心ではない。

 守ると決めた者の覚悟だった。


「わかりました」


 真薫は、深く頭を下げた。


「私にできることは、限られていますが……」


「いや、君にできることはある」


 源基隆は、真薫の肩を軽く叩いた。


「真実を、記録しろ」


 真薫は、息を呑んだ。


「いつか、道顕が失脚する日が来る。私が、必ず成す」


 源基隆は、穏やかに微笑む。


「――その時こそ、君の記録が、強力な証拠となる」


「頼んだぞ」


 真薫は、静かに頷いた。


 萩野という女房の名を、

 決して、犠牲の中に埋もれさせぬために。


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