九 犠牲の名
数日後、真薫は再び左大臣邸を訪れた。
萩野の容態を確かめるためだった。
次兄、実薫がこの件に関わっていると知った以上、知らぬふりをすることはできなかった。
兄の行いを止められなかったとしても、その結果から目を逸らさぬことくらいは、弟である自分の務めだと、真薫は思っていた。
潔子が、真薫を迎えた。
以前よりも、顔色が落ちている。
屋敷に漂う沈鬱さが、そのまま彼女に染みついているようだった。
「萩野は……まだ、目を覚ましません」
潔子の声は、低く沈んでいた。
「そうですか……」
真薫は短く応え、萩野の局へと案内された。
萩野は、相変わらず褥に横たわっていた。
目を閉じ、静かに呼吸している。
生きていることだけが、辛うじて分かる。
ときおり、唇が動く。
「……くろい……。……こわい……」
それは、夢とも現ともつかぬ声だった。
か細く、弱々しく、助けを求めるでもなく、ただ零れる。
真薫は、褥の傍にひざまずき、萩野を見下ろした。
(この人は、犠牲にされた)
(道顕様の策略の、ただの駒として)
拳を握る。
爪が、掌に食い込む。
(もしかしたら、兄上の行いで――)
考えが、そこで途切れた。
「萩野……」
潔子が、そっと萩野の手を取った。
その指先は、祈るように震えている。
潔子は、何も知らない。
いや、知りようがない。
だからこそ、その声は純粋で、痛ましかった。
「私のせいなの……?」
潔子の声が、震えた。
「私が、入内しようとしているから……だから、お前が……」
言葉が続かず、涙がぽろぽろと落ちる。
「私が、諦めれば……萩野は、こんなことには……」
「潔子様」
真薫は、はっきりと声をかけた。
「あなたのせいではありません」
潔子は、顔を上げる。
「でも……」
「これは、政治の問題です」
真薫は、感情を抑え、淡々と告げた。
「……忌々しいことですが」
そして、視線を逸らさず続ける。
「あなたが入内を諦めても、おそらくは別の形で攻撃が続くでしょう」
潔子は、言葉を失った。
「だから」
真薫は、静かに言った。
「あなたは、自分の道を進んでください」
潔子は、まっすぐに真薫を見た。
涙に濡れた眸は揺れている。
それでも、その奥に宿る意志は、揺れていなかった。
「……はい」
潔子は、小さく頷いた。
それは、誰かの犠牲の上に立つことを、引き受けるという決意だった。
真薫が左大臣邸を辞そうとしたとき、源基隆本人に呼び止められた。
「式部省の真薫殿か」
「はい」
真薫は、深く頭を下げた。
「左大臣様」
源基隆は、五十代の、品のある男だった。
だが、その眼差しには、柔らかさよりも覚悟が宿っている。
「萩野のこと、ありがとう」
「いえ……」
真薫は、言葉を失った。
何も、できていない。
源基隆は、そんな真薫をじっと見つめた。
「この事件の背後に、何があるか」
静かに問いかける。
「君も、わかっているだろう」
「……はい」
「道顕の策略だ」
その名を、ためらいなく口にする。
「潔子の入内を阻止するためのものだ。――しかし、私は諦めない」
源基隆の目が、鋭く光った。
「潔子は、必ず入内させる。萩野の犠牲を、無駄にはしない」
その言葉には、怒りよりも、決意があった。
真薫は、源基隆を見た。
そこにあるのは、権力者の野心ではない。
守ると決めた者の覚悟だった。
「わかりました」
真薫は、深く頭を下げた。
「私にできることは、限られていますが……」
「いや、君にできることはある」
源基隆は、真薫の肩を軽く叩いた。
「真実を、記録しろ」
真薫は、息を呑んだ。
「いつか、道顕が失脚する日が来る。私が、必ず成す」
源基隆は、穏やかに微笑む。
「――その時こそ、君の記録が、強力な証拠となる」
「頼んだぞ」
真薫は、静かに頷いた。
萩野という女房の名を、
決して、犠牲の中に埋もれさせぬために。




