八 後始末
萩野が倒れたと聞いたとき、実薫は思わず立ち上がっていた。
「……昏倒?」
報告してきた下女は、困ったように首をすくめる。
「はい。まだ、意識が戻らず……薬師を呼んでおります」
実薫は、奥歯を噛みしめた。
(おかしい)
あれは、脅しのための呪詛だった。
本物ではない。効くはずがない。
用意させたのは、形だけを似せた紛い物だ。
呪符も、灰も、詞書も――本式からは微妙に外してある。
あくまで「それらしく見える」だけの代物。
(……なのに)
実薫は、渡殿を歩きながら、指先をきつく握った。
人は、信じたものに負ける。
それは分かっていた。
だが、ここまでとは思っていなかった。
萩野は、真面目な女房だった。
自分が狙われていると悟った瞬間、逃げもせず、声も上げなかった。
その分、恐怖を内に溜め込み、限界まで耐えたのだろう。
(脅すだけで済むと思ったのは……俺の甘さか)
「命に別状はないとのことでした。ただ、心労が重なったのでしょうと……」
そう報告した下女の言葉に、実薫は胸の奥が強く痛むのを感じた。
(心労……)
それを与えたのは、間違いなく自分だ。
実薫は、袖の中で拳を握りしめた。
(俺は、血を流させないつもりだった)
(騒ぎを大きくせず、誰も殺さず、誰も壊さずに――)
だが、現実は思惑通りにはいかない。
呪詛が偽物でも、恐怖は本物だ。
それが、人を倒す。
「……すまない」
誰にともなく、実薫は小さく呟いた。
この件は、これ以上広げてはならない。
萩野は「急な病」として処理する。
呪詛の噂も、ここで断ち切る。
そう判断しながらも、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。
(次は、もっと上手くやる)
そう思った瞬間、それがすでに主――道顕の論理に一歩近づいていることを、実薫は認めたくなかった。
ともあれ報告をしなければならない。
この件は、顕実の差配で動いたものだ。
(……どこまで、話す)
呪詛は偽物だ。
だが、そのせいで人が倒れた。
脅すだけのつもりだった、という言い訳は、結果の前ではあまりに薄い。
やがて呼び出しがかかり、実薫は衣の襟を正して顕実のもとへ向かった。
「実薫です」
「入れ」
顕実は、文机の前に座していた。
書きかけの文を伏せ、実薫を見る。
「左大臣家の件だな」
「はい」
実薫は、ひとつ息を置いてから口を開いた。
「呪詛は……広がっておりません」
まず、結論から。
「噂になる前に、押さえました。使われたものも」
そこで、わずかに言葉を切る。
「……形だけの紛い物でした」
顕実の眉が、わずかに動いた。
「偽物か」
「はい。効くようなものではありません」
それは、事実だ。
だが、実薫は続ける前に、もう一度息を整えた。
「ただ……」
「ただ?」
「女房の萩野が、昏倒しました。現在も、まだ意識が戻っておりません」
一瞬、室内の空気が重くなる。
「命に別状は?」
「ございません。薬師の見立てでは、心労とのことです」
顕実は、しばらく黙って実薫を見つめた。
「……想定以上、ということか」
「……はい」
実薫は、視線を伏せた。
自分が用意させたものだとは言わない。
だが、命じられた以上、逃げる気もなかった。
「騒ぎにはなっていないな」
「はい。左大臣家の方も騒ぎにはしたくないようで、広まってはおりません」
「よくやった」
顕実の声は、淡々としていた。
褒められたはずなのに、実薫の胸には、重たいものが沈む。
「……次は、もっと慎重にいたします」
顕実は、その言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうしろ。父上は、“大事にするな”と仰っている」
その名が出た瞬間、実薫の背に、冷たいものが走った。
「……承知しております」
「犠牲が出れば、使いづらくなる」
顕実は、それ以上言わなかった。
だが、その沈黙の意味は、十分に伝わる。
(……ああ)
(やはり、ここでは)
(“誰が倒れたか”よりも、“どれだけ静かに済んだか”なのだ)
実薫は、深く頭を下げた。
「この件は、私の手で、これ以上広がらぬよう始末します」
「任せる」
それだけで、話は終わった。
部屋を出たあと、実薫は渡殿の柱に、そっと背を預けた。
(真薫)
弟の顔が、脳裏をよぎる。
(……お前は、こんなやり方を嫌うだろうな)
それでも、自分はこの場所にいる。
誰かがやらねば、もっと酷いことになる。
(だから、俺がやる)
(せめて、俺の手の届くところでは)
実薫は、唇を引き結び、再び歩き出した。




