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式部省の呪詛係  作者: 浮田小葉子
第七章 見えぬ糸
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七 父子の不調和

 右大臣邸。

 重く閉ざされた屋敷の奥で、香の匂いが澱んでいた。


 誰か配合を間違えたのだろうか。

 祈祷でも行ったのかと思うほど濃く、白檀の重苦しくむせ返るような甘さが匂ってくる。

 夏の香には、爽やかに咲き誇る蓮の花のような、涼やかさこそが相応しい。


 そんなことをつらつらと考えながら、

 藤原道顕(ふじわらのみちあき)は、円座(わろうだ)に座ったまま、息子の顕実(あきみつ)を呼んでいた。


「顕実」


「はい、父上。お呼びと伺いました」


 呼ばれるだけで、背筋が強張る。

 顕実は、無意識に拳を握りしめていた。


 足早にやってきた息子を見上げ、道顕は呟くように告げた。


「顕子が、身籠ったかもしれない」


 その言葉に、顕実は一瞬、目を伏せた。

 祝福すべき知らせのはずなのに、胸がざわつく。


 道顕は、にやりと笑った。


「もし本当なら、我が一族の繁栄は約束されたものとなる」


 笑みの奥で、両眼がぎらりと光る。

 そこにあるのは、父の喜びではなく、勝者の算段だった。


「だからこそ、源潔子(みなもとのゆきこ)の入内は阻止しなければならない」


 道顕は、顕実を見据えた。


「源氏が外戚になるなど、許されないのだ」


 声は低く、静かだが、狂気じみた圧があった。

 異を唱える余地など、最初からない。


「左大臣家の女房の呪詛の件は、うまくいっているか」


 一拍の沈黙。


「……はい」


 顕実は、そう答えるしかなかった。


(父上の策略か……)


 胸の奥で、言葉にならないものが渦巻く。


(女房を犠牲にし、そして、真薫(ちかゆき)をも――)


 道顕は、顕実の沈黙を意に介さず、言葉を続けた。


「この件は、実薫(さねゆき)に差配させているな」


「……はい」


「過剰に大事(おおごと)にはするな」


 短く、切り捨てるように。


「呪詛など、騒がれれば厄介だ。余計な死人や噂は、要らぬ」


 顕実は、わずかに目を見開いた。


(……実薫は)


(あいつなりに、抑え込もうとしている)


 女房たちの処遇、証拠の扱い、告発の芽。

 すべてを水面下で処理し、大事にならぬよう心を砕いていることを、顕実は知っていた。


「顕実」


「はい」


「真薫という男を、監視しろ」


 道顕の目が、冷たく細められる。


「あの男は、賢い。だからこそ、危険だ。もし、何か余計なことをしていたら、報告しろ」


 顕実は、一瞬だけ唇を噛んだ。


「……わかりました」


 頭を下げながら、心は沈んでいく。

 道顕は、ふと視線を外し、付け加えるように言った。


「それと――」


「実薫にも伝えろ」


 顕実は、息を詰めた。


「弟を、上手く抑えておけ。あるいは、上手く使え」


 あまりに当然のように、命じられる。


「血を分けた弟だろう。情で動くなら、それはそれで使い道がある」


 顕実は、深く頭を垂れた。


「……承知いたしました」


 本心を隠した声だった。


「味方に取り込めたなら優位に動けるだろうが……」


 道顕は、鼻で笑った。


「ああいう男は、権力にも富にも興味が薄い。扱い難い」


(……だからこそ、だ)


 顕実は、心の中で反論する。


(だからこそ、信用できる)


 だが、それを口にすれば、何を失うか分からない。


(真薫……)


 脳裏に浮かぶ、淡々とした横顔。


(実薫……お前もだ)

(余計な血を流さぬよう、走り回っているくせに)

(……どうして、こんな役回りばかり押し付けられる)


 しかし、その思いを外に出すことはできない。


(私は父上には逆らえない)


 それが、道顕の息子として生きる代償だった。


 顕実は、再び深く頭を下げた。

 父の影の中で、自分の感情を押し殺しながら。


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