六 中宮の涙
その頃、宮中では。
弘徽殿。
御簾の向こうで、夏の光が白く揺れていた。
外では人の気配が絶えないはずなのに、この一角だけは、ひどく静かだった。
中宮顕子は、大江次子——合歓の君を側に控えさせていた。
次子は、いつもより一歩近く、顕子の傍に控えている。
「合歓」
「はい、中宮様」
呼ばれた声は、いつもより弱い。
次子は、自然と背筋を伸ばした。
「私……」
顕子は、膝の上で指を重ね、ほどく。
その仕草は、ひどく慎重だった。
「もしかしたら、身籠っているかもしれない」
次子は、一瞬、言葉を失った。
「中宮様……!」
驚きと喜びが同時に胸に湧く。
だが、顕子の表情を見て、それを飲み込んだ。
「まだ、確かではないの」
顕子は、はにかむように微笑んだ。
その笑みには、頼りなげな少女のような不安が滲んでいる。
「しかし、体の変化を感じる」
次子は、息を整えてから言った。
「もし本当なら……」
顕子の声が、震えた。
「なんとも、喜ばしいことでございますね」
そう言いながらも、次子は喜びきれなかった。
顕子の眸に、すでに影が落ちている。
顕子は、ゆっくりと首を振った。
「喜びもある。しかし、不安もある」
立ち上がり、御簾の隙間から外を見る。
「主上の御子を産むことは、望外の喜びだ。しかし、同時に……父の野望を叶えることにも繋がるの」
顕子は、振り返り、次子を見た。
「そして……」
声が、さらに小さくなる。
「源潔子殿が、入内しようとしている。もし、私が身籠っていなければ……」
言葉が、途中で途切れた。
「そして潔子殿が、ご寵愛を受け、御子を……皇子を産めば……」
顕子は、袖の中で拳を握りしめた。
指先が、白くなる。
「父上は、潔子殿を排除するだろう。――いや、すでに動いている」
その確信に、次子は言葉を失った。
顕子の瞳に、涙が滲む。
「合歓、私は……どうすればいいのだろう……」
声が、かすれる。
「父上の野望を止めることはできない。しかし、多くの人が犠牲になるのを、見ているだけで良いわけがない……」
次子は、一歩踏み出し、顕子の手を取った。
細い指が、かすかに震えている。
「中宮様……」
「私は、ただ……」
顕子の肩が、揺れた。
「主上を、お慕いしているだけなのに。――なぜ、こんなに苦しいのか」
涙が、袖を濡らす。
次子は、顕子を抱きしめた。
女房としてではなく、一人の人として。
「中宮様は、お優しい方です。だから、苦しまれておられるのです」
囁くように続ける。
「――お守りいたします。私が、なんとしても……」
顕子は、次子の肩に額を預け、声を殺して泣いた。
御簾の向こうでは、変わらず夏の光が揺れている。
誰にも見えぬ場所で流された涙が、やがて大きな流れを生むことを、まだ誰も知らなかった。




