二 左大臣家の不穏
その朝、真薫が式部省に出仕すると、建物の前に見慣れた姿があった。
藤原兼遠が、式部省の前に立っている。
いつもなら、書記たちと軽口を交わしている時間だ。
それをせず、ただ待っている。
しかも険しい顔をして――
それだけで、尋常ではないとわかった。
「真薫くん」
兼遠が、声をかけてきた。
「兼遠様」
互いに礼を交わす。
だが、その間に挟まる沈黙は、普段よりも重い。
「源基隆殿から、依頼が来ている」
兼遠はそう言って、懐から書状を取り出した。
封はすでに切られている。
「女房が呪詛で倒れた、と」
言葉は淡々としていたが、兼遠の視線は真薫から逸れなかった。
真薫は、書状を見た。
——源基隆邸、女房萩野、卒倒。呪詛の疑い。
簡潔すぎる文面。
事情を語らぬまま、結論だけを急いだ書き方だった。
真薫は、眉をひそめた。
「源基隆……左大臣様ですね」
「ああ」
兼遠は頷いた。
「調査してくれ」
命令ではない。
だが、断る余地のない声音だった。
真薫は、もう一度、書状を読んだ。
(源基隆邸……左大臣様ご本人。つまりは道顕様の競争相手)
(ご息女が、そのうち入内するとか、そんな噂もあったはずだ)
政治の匂いが、はっきりと鼻を突いた。
些事ではない。
猫や狐の話では、決してない。
嫌な予感がした。
胸の奥で、夏の空気が一段、重くなる。
「わかりました」
真薫は書状を受け取った。
紙の感触が、妙に硬く感じられた。
「定明殿と、すぐに向かいます」
兼遠は、短く頷いた。
「頼む」
その一言に、真薫は背筋を正した。
左大臣家。
それは、怪異の調査であると同時に、
政治の只中へ踏み込むということでもあった。




