一 些事の夏
文月は、とにかく忙しかった。
夏の陽は早く昇り、遅くまで京の屋根を焼いた。
朝から蝉の声が途切れず、道を歩けば土埃が舞う。
それでも、人々は些細な不安を抱えて真薫たちを呼び止めた。
藤原真薫と安倍定明は、京中を駆け回った。
猫が井戸に落ちた。
犬が庭を荒らした。
狐が蔵に入り込んだ。
鼬が天井裏に棲みついた。
蝉が夜中に鳴いた。
雉が屋敷に迷い込んだ。
どれも、人の命に関わるものではない。
だが、放っておけば心に引っかかる――そんな出来事ばかりだった。
些細な事件ばかり。
どれも、呪詛ではなかった。
真薫は、そのことに安堵しながらも、どこかで不思議に思っていた。
呪詛ではないのに、人々はこれほど怯え、陰陽寮ではなく怪異雑掌を頼る。
まるで、恐怖の矛先を「小さなもの」に向けさせるように。
「明日は、何でしょうね」
汗を拭いながら、定明が言った。
声は軽く、疲れを冗談に変える余裕がある。
「さあな」
真薫も、思わず笑った。
昨日は狐、今日は鼬。
明日は猫か、犬か、それともまた鳥だろうか。
そんなことを話しながら歩く道は、どこか穏やかだった。
忙しさに追われる日々。
定明の顔色は、以前よりも良い。
眠れているのだろう。
笑う回数も、確実に増えていた。
(今は、それでいい)
真薫は、そう思った。
しかし、それは束の間の平穏だった。
真薫は、それを知っていた。
藤原道顕の監視は、続いている。
怪異雑掌に集まる依頼の多さも、偶然ではない。
この「些事の連なり」が、何かを覆い隠している可能性を、真薫は否定できなかった。
いつ、また大きな事件が起きるか、わからない。
それが呪詛でなくとも、人の心を壊す出来事は起こり得る。
だから、この平穏を、大切にしたかった。
今はまだ、猫や犬を追い、鳥を逃がし、蝉の声に苦笑していられる。
定明と並んで歩き、他愛のない会話を交わせる。
それが、どれほど脆い時間であるかを知っているからこそ、
真薫は一日一日を、胸に刻むように過ごしていた。
葉月に入り、数日が経った頃。
京の空気が、わずかに変わった。
そして。
その事件は起こった。




