三 文殿の名
数日後、真薫は式部省の文殿——書庫で古い記録を整理していた。
兼遠に頼まれた仕事だった。
過去の怪異雑掌の報告書を、年代順に並べ直す。
紙の匂い。
時の降り積もったような文字を、眼で追う。
地味な作業だったが、真薫はそういう仕事が嫌いではなかった。
古い記録を読むことで、過去の事件の様子がわかる。
そして、道顕がどのように事件を操作してきたか。
その痕跡を探すこともできる。
真薫は、一つ一つの報告書をめくっていた。
十七年前の記録。
まだ、真薫が幼い頃の出来事だ。
とある名前が目に留まった。
——紀有子、中宮嘉子内親王の女房。病死。
真薫は、その名前を見て、手を止めた。
「紀有子……」
真薫は、その名前を呟いた。
どこかで、聞いたことがある気がした。
しかし、どこで?
真薫は、記憶を辿った。
紀有子。
紀有子。
——有子。
そのとき、真薫は思い出した。
数日前、兼遠が窓の外を見ながら呟いた名前。
「……有子」
あれは、この人物のことだったのか。
真薫は、改めて報告書を読んだ。
——紀有子、中宮嘉子内親王の女房。病死。
詳細不明。
それだけだった。
詳細が何も書かれていない。
ただ、「病死」とだけ。
真薫は、その不自然さに気づいた。
通常、中宮に仕える女房が亡くなったとなれば、もっと詳しい記録が残る。
しかし、これは異様に簡潔だった。
まるで、何かを隠しているように。
不自然なほど簡潔な記録に、胸の奥で何かがざわめく。
「紀有子……」
真薫は、その名前を呟いた。
兼遠は、この人物のことを思い出していたのか。
しかし、あれほど悲しそうだった理由は――。
「その名を、どこで知った?」
不意に声がかけられた。
気配はなかった。
いや、気付けなかった。
真薫は、ゆっくりと振り向いた。
兼遠が、立っていた。
いつもの笑顔はなく、厳しい表情だった。
「兼遠様……」
「真薫くん、その名前を、どこで知った」
兼遠の声が、震えていた。
「文殿で、古い記録を整理していました。そうしたら――」
真薫は、冊子を見せた。
「この名前が、目に留まったんです」
兼遠は、その冊子を見た。
そして、深く息を吐いた。
「そうか……」
兼遠は、冊子を手に取った。
その手は、わずかに震えていた。
「兼遠様、この方は……」
真薫が訊こうとすると、兼遠は言った。
「真薫くん。話がある」
兼遠は、真薫を見た。
「少し、付き合ってくれ」




