二 些事ばかりの日
真薫は、安倍定明と合流し、今日も京中を駆け回った。
またしても、些細な依頼ばかり。
庭に迷い込んだ狐。
屋根裏の鼬。
夜中に鳴く蝉。
当然というべきか、なんというべきか。
どれも、呪詛ではなかった。
「やれやれ」
定明は、苦笑した。
「今日は、狐と鼬と蝉ですか」
「ああ」
雨に濡れた路を歩きながら、定明は笑った。
「明日は、何でしょうね」
真薫は、定明を見た。
定明が、笑っている。
忙しさが、定明を救っている。
このまま、定明が笑える日が続くといい。
そう思った。
そして願った。
この日々が、少しでも長く続けばいいと。
その日の午後、真薫が式部省に戻ると、藤原兼遠が簀子縁に立っていた。
外を、じっと見ている。
いつもの軽い調子は、どこにもない。
「兼遠様」
真薫が声をかけると、兼遠は振り向いた。
「ああ、真薫くん」
兼遠は、いつものように笑った。
しかし、その笑みは、どこか虚ろだった。
「お疲れ様。今日も、大変だったね」
「……はい」
「報告書、後で見せてくれ」
「わかりました」
兼遠は、また外を見た。
雨がまた、降り始めた。
音もなく静かに、烟るように。
京の都が、灰色に霞んでいた。
「兼遠様、何かありましたか」
真薫が訊くと、兼遠は首を振った。
「いや……」
兼遠は、小さく笑った。
「少し、昔のことを思い出していた」
「昔のこと……」
「うん」
兼遠は、雨を見つめたまま、呟いた。
「もう、十五年以上も前のことだ」
兼遠の声が、震えた。
「あの頃は……」
兼遠は、何かを言いかけて、口を閉じた。
そして、小さく、名前を呟いた。
「……有子」
真薫は、その名前を聞いた。
しかし、誰のことかわからなかった。
「兼遠様?」
「ああ、すまない」
兼遠は、我に返ったように笑った。
「何でもない。気にしないでくれ」
兼遠は、真薫の肩を叩いた。
「さ、仕事に戻ろう」
兼遠は、去っていった。
雨音だけが残された。
兼遠の様子は、明らかにおかしかった。
いつもの軽い調子ではない。
何か、深い悲しみを抱えているようだった。
そして、呟いた名前。
——有子。
真薫は、その名前を心に留めた。
誰かは分からない。
けれど兼遠にとって、大切な人なのだろうということは、感じられた。




