五 それが君のためだ
しかし、藤原真薫の胸には、拭いきれない引っかかりが残っていた。
依頼が、あまりにも多い。
しかも、そのほとんどが拍子抜けするほど軽微だ。
井戸の音。
庭に現れた獣。
夜の鳴き声。
どれも、呪詛と呼ぶには無理がある。
(なぜ、ここまで)
真薫は、書付を整理しながら考えた。
怪異雑掌は、本来、もっと重い案件を扱う役だ。
人が倒れ、家が荒れ、祈祷や鎮魂が必要になる――そうした場に呼ばれ、記録する。
そのはずだった。
それなのに、今は違う。
(なぜ、貴族たちはこぞって怪異雑掌に依頼してくる)
その疑問は、日に日に大きくなっていた。
真薫は、意を決して藤原兼遠に尋ねた。
「兼遠様」
「ん?」
兼遠は、いつものように柔らかな笑みを浮かべる。
相変わらず、読めない表情だ。
「最近の依頼の多さ……何か理由があるのでしょうか」
「さあね」
即答だった。
「みんな、呪詛に敏感なんじゃない?」
軽い言い方。
それ以上、考える必要はない、と言外に告げている。
「しかし——」
真薫が言いかけた、その時。
「真薫くん」
兼遠の声が、わずかに低くなった。
それだけで、空気が変わる。
「余計なことは、考えなくていいよ」
真薫は、言葉を失った。
「忙しくしていればいい」
兼遠は、眼を細め、にこやかに続ける。
「それが、君のためだから」
そして、いつものように真薫の肩を叩いた。
「わかるよね」
それは、問いかけではなかった。
確認でもない。
結論だった。
真薫は、それ以上何も言えなかった。
怪異雑掌所に戻っても、その言葉が頭から離れなかった。
——忙しくしていればいい。
——それが、君のためだから。
まるで、誰かが意図的に、
真薫を「考えられない状態」に置こうとしているかのようだ。
(では、誰が)
そして
(なぜ)
真薫は、机の上に積まれた報告書を、もう一度広げた。
依頼してきた貴族たちの名を、指先でなぞっていく。
藤原朝照。
源経総。
大江正周。
平近信。
藤原惟信。
源雅房。
どれも、中小の家。
特定の派閥に深く属しているわけではない。
(共通点が、ない)
だからこそ、不自然だった。
これほど一斉に、同じ役所へ依頼が集中する理由が見えない。
「……まさか」
真薫は、息を呑んだ。
誰かが、彼らに働きかけている。
些細なことでも、怪異雑掌に依頼しろ、と。
それは命令ではない。
だが、断れない“助言”。
(では、誰が)
問いは、すぐに一つの像を結ぶ。
右大臣――
藤原道顕。
名を思い浮かべただけで、背筋が冷えた。
もしそうだとすれば。
この忙しさは、偶然ではない。
そして――
「君のため」という言葉は、真薫を守るためのものでは、なかったのかもしれない。




