四 多忙という救い
皐月も、すでに半ばを過ぎていた。
依頼は、目に見えて増えていった。
一つ片付ければ、次が来る。
朝に受け、昼に回り、夕方にはまた新しい訴えが積まれる。
藤原真薫と安倍定明は、ほとんど毎日のように京中を歩き回っていた。
井戸に落ちた犬。
庭に迷い込んだ狸。
夜半に鳴く梟。
いずれも、呪詛ではなかった。
原因を確かめ、説明し、恐れを解く。
それだけの仕事だ。
それでも人々は、胸をなで下ろし、礼を言う。
真薫は、歩きながらふと思った。
これは仕事というより、安心を売る役目なのだと。
「定明殿」
ある日の帰り道、真薫は声をかけた。
「この忙しさ、どう思う」
定明は、少し考えるように空を見上げ、それから肩を竦めた。
「さあ……」
曖昧な返事だったが、すぐに続ける。
「でも、悪くないですよ」
「悪くない?」
「ええ」
定明は、にっこりと笑った。
「忙しければ、余計なことを考えずに済みますから」
真薫は、視線を投げた。
だが、言葉を返さなかった。
「保規様のことも」
定明は、歩調を崩さずに言う。
「自分のことも」
声は、静かだった。
淡々としている分、重い。
「忙しいのは……いいんです」
その言葉に、真薫は定明の横顔を見た。
定明は、確かに笑っている。
保規の死以来、初めて見る、屈託のない笑顔だった。
陰陽寮での居心地の悪さも、視線や沈黙も、この忙しさの中では、考える暇がないのだろう。
「そうだな」
真薫は、ゆっくりと頷いた。
「忙しいのも、悪くない」
それは、慰めであり、同時に願いだった。
——この状態が、少しでも長く続けばいい。
そんなことを考えた。
ある日、二人は梨の木の下で足を休めていた。
初夏の日差しが、葉を透かして降り注ぐ。
地面に落ちる影が、風に揺れていた。
「真薫殿」
定明が、空を見上げたまま言う。
「今日は、何でしたっけ」
「雉だ」
「ああ……そうでした」
定明は、くすっと笑った。
「庭に迷い込んだ雉を、物の怪だって」
「ああ」
二人は、顔を見合わせ、声を立てずに笑った。
「でも」
定明は、ふと真薫を見る。
「こういう日常も、悪くないですね」
「ああ」
真薫は、頷いた。
「悪くない」
そう答えながら、胸の奥に小さな棘を感じていた。
——これは、救いだ。
だが、永遠ではない。
それでも。
定明の笑顔が増えたことは、確かだった。
それが続いてほしいと、真薫は願ってしまった。
それが、危うい願いだと知りながら。




