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式部省の呪詛係  作者: 浮田小葉子
第五章 束の間の日常
32/52

四 多忙という救い

 皐月(さつき)も、すでに半ばを過ぎていた。


 依頼は、目に見えて増えていった。

 一つ片付ければ、次が来る。

 朝に受け、昼に回り、夕方にはまた新しい訴えが積まれる。


 藤原真薫(ふじわらのちかゆき)安倍定明(あべのさだあきら)は、ほとんど毎日のように京中を歩き回っていた。


 井戸に落ちた犬。

 庭に迷い込んだ(たぬき)

 夜半に鳴く(ふくろう)


 いずれも、呪詛ではなかった。


 原因を確かめ、説明し、恐れを解く。

 それだけの仕事だ。

 それでも人々は、胸をなで下ろし、礼を言う。


 真薫は、歩きながらふと思った。

 これは仕事というより、安心を売る役目なのだと。


「定明殿」


 ある日の帰り道、真薫は声をかけた。


「この忙しさ、どう思う」


 定明は、少し考えるように空を見上げ、それから肩を竦めた。


「さあ……」


 曖昧な返事だったが、すぐに続ける。


「でも、悪くないですよ」


「悪くない?」


「ええ」


 定明は、にっこりと笑った。


「忙しければ、余計なことを考えずに済みますから」


 真薫は、視線を投げた。

 だが、言葉を返さなかった。


保規(やすのり)様のことも」

 定明は、歩調を崩さずに言う。

「自分のことも」


 声は、静かだった。

 淡々としている分、重い。


「忙しいのは……いいんです」


 その言葉に、真薫は定明の横顔を見た。


 定明は、確かに笑っている。

 保規の死以来、初めて見る、屈託のない笑顔だった。


 陰陽寮での居心地の悪さも、視線や沈黙も、この忙しさの中では、考える暇がないのだろう。


「そうだな」


 真薫は、ゆっくりと頷いた。


「忙しいのも、悪くない」


 それは、慰めであり、同時に願いだった。


 ——この状態が、少しでも長く続けばいい。


 そんなことを考えた。



 ある日、二人は(なし)の木の下で足を休めていた。


 初夏の日差しが、葉を透かして降り注ぐ。

 地面に落ちる影が、風に揺れていた。


「真薫殿」

 定明が、空を見上げたまま言う。

「今日は、何でしたっけ」


(きじ)だ」


「ああ……そうでした」


 定明は、くすっと笑った。


「庭に迷い込んだ雉を、物の怪だって」

「ああ」


 二人は、顔を見合わせ、声を立てずに笑った。


「でも」


 定明は、ふと真薫を見る。


「こういう日常も、悪くないですね」


「ああ」


 真薫は、頷いた。


「悪くない」


 そう答えながら、胸の奥に小さな棘を感じていた。


 ——これは、救いだ。

 だが、永遠ではない。


 それでも。


 定明の笑顔が増えたことは、確かだった。

 それが続いてほしいと、真薫は願ってしまった。


 それが、危うい願いだと知りながら。


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