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式部省の呪詛係  作者: 浮田小葉子
第五章 束の間の日常
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一 呪詛騒ぎの季節

 皐月(五月)


 薫風(くんぷう)が都を渡り、若葉の色が日に日に濃くなる季節だ。

 朝の空気はやわらかく、衣を通り抜ける風に、かすかな青草の匂いが混じっている。


 その爽やかさとは裏腹に、都の空気はどこか落ち着かなかった。


 藤原真薫(ふじわらのちかゆき)が式部省に出仕すると、渡殿に藤原兼遠(ふじわらのかねとお)の姿があった。

 まるで待ち伏せていたかのようだが、本人はそんな気配を微塵も見せない。


「やあ、真薫くん」

 兼遠は、いつものように軽く手を振った。

「今日も仕事だよ」


「……はい」


 真薫は短く答えた。

 このやり取りにも、もう慣れた。


「これから、もっと忙しくなるよ」


 兼遠は、にこやかな笑顔のまま言った。


「この季節はね、みんな呪詛に敏感になるんだ」


 真薫は、内心で小さく息を吐いた。


「ちょっとした物音でも“呪詛だ”。庭で光がちらつけば“怨霊だ”」


 兼遠は、まるで笑い話をするように続ける。


「怖いんだろうね。目に見えないものほど」


 そう言って、数枚の報告書を真薫に差し出した。


「これ、全部調べて」


 真薫は、受け取った紙に目を落とす。


 ——藤原朝照(ふじわらのあさてる)邸、井戸より怪音。呪詛の疑い。

 ——源経総(みなもとののりふさ)邸、庭に怪光。怨霊か。

 ——大江正周(おおえのまさちか)邸、飼い鳥の変死。呪詛と思われる。


「……これは」

 思わず、眉が寄った。

「呪詛には、見えませんが」


「まあまあ」


 兼遠は、肩を竦めた。


「そう言わずに、ちゃんと調べてよ。一応、皆さんには物忌(ものいみ)してもらってるんだから」


「物忌……」


「うん。皆さん怖がっちゃっててね」


 兼遠は、軽い調子で言う。


「家に()もって、外に出ない。こんなにも爽やかな季節だというのにさ」


 真薫は、報告書から顔を上げた。


 物忌。

 ある期間中、ある種の日常的な行為を控え、穢れを避けることだ。


 だが、そこに実体のある“呪い”が含まれていることは、ほとんどない。


「真薫くん」


 兼遠は、真薫の肩を軽く叩いた。


定明(さだあきら)くんと一緒に、ちゃんと調査してね」


「……はい」


「じゃ、よろしく」


 兼遠は、それだけ言って去っていった。

 足取りは、どこまでも軽い。


 真薫は、その場に残り、改めて報告書を見下ろした。


 どれも、軽微なものばかりだ。


 人が死んだわけではない。

 重い病に伏した者がいるわけでもない。


 ただ、貴族たちが――

 不安と恐れを「呪詛」という言葉に押しつけて騒いでいるだけだ。


「……なぜ、こんなにも」


 真薫は、ぽつりと呟いた。


 薫風は、今日も都を吹き抜けている。

 だが、その風は、人々の心の中までは、晴らしてはくれない。


端午節会(たんごのせちえ)で邪気は(はら)ったばかりだろうに……」


 真薫は長く長く、溜息を吐いた。

 菖蒲も薬玉も。

 邪気には効いても、恐怖には効かないようだ。


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