一 呪詛騒ぎの季節
皐月。
薫風が都を渡り、若葉の色が日に日に濃くなる季節だ。
朝の空気はやわらかく、衣を通り抜ける風に、かすかな青草の匂いが混じっている。
その爽やかさとは裏腹に、都の空気はどこか落ち着かなかった。
藤原真薫が式部省に出仕すると、渡殿に藤原兼遠の姿があった。
まるで待ち伏せていたかのようだが、本人はそんな気配を微塵も見せない。
「やあ、真薫くん」
兼遠は、いつものように軽く手を振った。
「今日も仕事だよ」
「……はい」
真薫は短く答えた。
このやり取りにも、もう慣れた。
「これから、もっと忙しくなるよ」
兼遠は、にこやかな笑顔のまま言った。
「この季節はね、みんな呪詛に敏感になるんだ」
真薫は、内心で小さく息を吐いた。
「ちょっとした物音でも“呪詛だ”。庭で光がちらつけば“怨霊だ”」
兼遠は、まるで笑い話をするように続ける。
「怖いんだろうね。目に見えないものほど」
そう言って、数枚の報告書を真薫に差し出した。
「これ、全部調べて」
真薫は、受け取った紙に目を落とす。
——藤原朝照邸、井戸より怪音。呪詛の疑い。
——源経総邸、庭に怪光。怨霊か。
——大江正周邸、飼い鳥の変死。呪詛と思われる。
「……これは」
思わず、眉が寄った。
「呪詛には、見えませんが」
「まあまあ」
兼遠は、肩を竦めた。
「そう言わずに、ちゃんと調べてよ。一応、皆さんには物忌してもらってるんだから」
「物忌……」
「うん。皆さん怖がっちゃっててね」
兼遠は、軽い調子で言う。
「家に籠もって、外に出ない。こんなにも爽やかな季節だというのにさ」
真薫は、報告書から顔を上げた。
物忌。
ある期間中、ある種の日常的な行為を控え、穢れを避けることだ。
だが、そこに実体のある“呪い”が含まれていることは、ほとんどない。
「真薫くん」
兼遠は、真薫の肩を軽く叩いた。
「定明くんと一緒に、ちゃんと調査してね」
「……はい」
「じゃ、よろしく」
兼遠は、それだけ言って去っていった。
足取りは、どこまでも軽い。
真薫は、その場に残り、改めて報告書を見下ろした。
どれも、軽微なものばかりだ。
人が死んだわけではない。
重い病に伏した者がいるわけでもない。
ただ、貴族たちが――
不安と恐れを「呪詛」という言葉に押しつけて騒いでいるだけだ。
「……なぜ、こんなにも」
真薫は、ぽつりと呟いた。
薫風は、今日も都を吹き抜けている。
だが、その風は、人々の心の中までは、晴らしてはくれない。
「端午節会で邪気は掃ったばかりだろうに……」
真薫は長く長く、溜息を吐いた。
菖蒲も薬玉も。
邪気には効いても、恐怖には効かないようだ。




