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式部省の呪詛係  作者: 浮田葉子
序章
2/3

真実の代償 後編

 その夜、真薫は自室で報告書を書いていた。

 硯で丁寧に墨をすり、筆を取る。


 ——藤原維時、呪詛による怪死。


 筆が止まった。

 真薫は、そこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。

 墨を含んだ筆先が、わずかに揺れ、紙の上に黒い影を落とす。

 息を整え、もう一度書き進めようとして、墨が滲んだ。


 真薫は目を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは、蒼白な顔。

 固く結ばれた唇。

 わずかに開いた目が、虚空を見つめていた。

 ——何かを、訴えるように。



 そして、真薫だけが掴んだ真実があった。

 維時の側近、橘忠平(たちばなのただひら)

 彼だけが、維時に毒を盛る機会を持っていた。

 右大臣家から金を受け取っていたという記録もある。

 動機も、機会も、すべて揃っている。


 ——だが、それを書けば。


 真薫の胸が、ひどく痛んだ。

 これは真実だ。

 だが、この真実を書けば、救われる者は誰もいない。

 真薫は、ゆっくりと目を開けた。


「……すまない、維時殿」

 独り言が、静かな部屋に落ちる。

「私には、力が足りない」


 しばしの沈黙の後、真薫は硯に筆を戻した。

 震えは、もうなかった。


 ——藤原維時、呪詛による怪死。

 その文字は、端正に記された。



 翌日、真薫は報告書を提出した。

 内容は、季房の命じた通り。

 呪詛による怪死。


 だが、真薫は密かに別の報告書も作成していた。

 そこには、詳細な調査結果と推理。

 橘忠平の犯行を示す証拠。

 ——すべてが、克明に記されている。


 その報告書を、真薫は自室の手箱の奥深くに隠した。


「いつか——」

 真薫は、小さく呟いた。

「いつか、この記録が意味を持つ日が来る」




 師走(十二月)

 真薫に辞令が下った。


 検非違使尉(けびいしのじょう)、解任。

 式部省しきぶのしょう少録しょうさかん、任命。

 職務、怪異雑掌(かいいざっしょう)


 通称――呪詛係。


「……左遷か」


 辞令を手に、真薫は呟いた。

 従六位下から正八位上へ。

 位階が大きく下がり、検非違使という実務の最前線から外された。



 その夜、真薫が自室に戻ると、次兄の実薫(さねゆき)が待っていた。

「真薫」

 低い声だった。

「実薫兄上」


「お前が何をしたか、私にはだいたい想像がつく」

 実薫の表情は硬い。

「だが、これ以上家に迷惑をかけるな。式部省で、大人しくしていろ」


「……はい」


「わかっているのか。これは、お前一人の問題ではない」

 実薫は真薫の肩を掴んだ。

「父上も、母上も、兄弟たちも——お前のせいで、不安を抱えている」


「わかっています」

 真薫は目を伏せた。

「申し訳ございません」


 しばらくして、実薫は溜息を吐き、手を離した。


「……私は、お前を守りたい。それだけは信じろ」

 そう言い残し、実薫は部屋を出て行った。



 翌朝、三兄の経薫(つねゆき)が訪ねてきた。


「災難だったな、真薫」

 柔らかな声だった。

「実薫兄上は厳しいが、お前を思ってのことだ。気に病むな」


「……はい」

「何かあれば言え。私にできることなら、力になる」

 経薫はそれだけ言って、静かに去っていった。


 その後、長兄・明薫(あきゆき)からも文が届いた。

 無理をするな、現実を見ろ。


 言葉は穏やかだったが、伝えたいことは同じだった。

 真薫は文を畳み、手箱にしまった。


 我が家は中流貴族。

 同じ藤原姓といえども、右大臣家とは違う。

 その差は、努力や正しさで埋まるものではない。

 真薫にも、それが分かっていた。


 ——それでも。

 自分の選択が、家を危うくしたことも、事実だった。

 実薫の厳しさも、経薫の優しさも、明薫の遠慮がちな忠告も、すべては家を守るためのものだった。

 真薫は、静かに息を吐いた。




 睦月(一月)

 真薫は式部省に初出仕した。


 式部省は、文官の人事を司る役所である。

 本来ならば重要な部署だが、真薫に与えられた「怪異雑掌」という職は、その中でも特に閑職とされていた。


 案内された部屋は、式部省の片隅。

 薄暗く、狭い。そしてかび臭い。


「ようこそ、呪詛係へ。今日から君がここの主だ」

 部屋の主が、にこやかに言った。


 藤原兼遠(ふじわらのかねとお)式部大夫(しきぶのたいふ)大丞(だいじょう)、従五位下。

 真薫の新しい上司である。

 四十代半ば。ふっくらとして、人の良さそうな顔立ち。

 だらしなく崩した衣冠姿が、やる気のなさを物語っている。


「まあまあ、堅苦しくならずに。ね」

 兼遠は笑った。

「ここは気楽な部署だよ。呪詛の報告書をまとめて、提出するだけ。簡単な仕事さ」


「……」


「真薫くん、だったね。検非違使から来たんだって? 大変だったねえ」

「はい」


「まあ、ここでゆっくり休みなよ。呪詛なんて、どうせ大半は嘘だからさ」

 兼遠はあっけらかんと言った。


「権力者の都合で、怪異のせいにしたいだけ。そういう書類が山ほど来る。適当にまとめて、適当に提出。それでいいんだよ」


 真薫は何も言えなかった。


「じゃ、よろしくね〜」

 兼遠は手を振って、出て行った。


 真薫は、一人残された部屋で立ち尽くす。


 隅には、埃をかぶった書類の山。

 そこに冷たい冬の光が細く差し込んでいる。


「……ここが、私の居場所か」


 真薫は、小さく溜息を吐いた。



 数日後。

 最初の案件が持ち込まれた。


藤原行斉(ふじわらのゆきなり)殿の屋敷で、怪異発生。使用人が次々と倒れているとのことです」


 兼遠がのんびりと頷く。


「ああ、またか。適当に『物の怪のせい』って書いといて」

「……調査は、しなくてよろしいのですか」


「え? 調査? まあ、形だけはしたほうがいいかもね」

 兼遠は笑った。

「じゃ、真薫くん、行ってきて。陰陽師も一人つけるから」


「陰陽師」


 怪異雑掌となれば、確かに陰陽寮が関わるのも当然であると思えた。

 しかし、一人つける、と言っても陰陽師は従七位上。

 実際のところ、正八位上の真薫よりも上位だ。


「ああ、安倍定明(あべのさだあきら)って人。腕は確からしいよ」

 そう言って、兼遠は再び部屋を出て行った。


 真薫は、持ち込まれた書類を手に取った。


 ——藤原行斉邸、怪異の報告。


「……始まるのか」


 真薫は呟き、深く深く息を吐いた。

 その書類の隅には、「呪詛」とだけ、墨が滲んでいた。



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