四 月下の逢瀬
その夜、真薫は北野天神を訪れた。
大江次子——合歓の君から、文が届いていた。
——今夜、北野の社に参ります。
真薫は、境内で待った。
しばらくして、牛車が到着した。
次子が降りてくる。
今回は、夜。
従者も一人だけ。
次子は、本殿に向かう。
真薫は、後を追った。
人気のない境内。
月明かりだけが、二人を照らしていた。
「なみ」
真薫が呼びかけると、次子は振り向いた。
「四郎様」
次子の声は、震えていた。
「お会いできて、よかった」
「何かあったのか」
「はい」
次子は、周囲を確認した。
従者は、少し離れたところで待っている。
「四郎様、危険です」
次子は、小声で言った。
「右大臣様が、あなたを排除しようとしています」
「……知っている」
「いえ、それだけではありません」
次子の声が、さらに小さくなった。
「今回の事件、右大臣様の自作自演です」
真薫は、息を呑んだ。
「やはり……」
「右大臣様は、自分の派閥の貴族を毒で病になさしめました。そして、陰陽師に呪物を設置させた」
「陰陽師を?」
「ええ。賀茂保規殿です」
真薫は、その名を聞いて驚いた。
保規——陰陽助。
つい先月、光保の死を報告した人物だ。
「保規殿が、道顕様の命で……」
「はい。保規殿は、右大臣様に仕えていました。今回も、右大臣様の命令で呪物を設置したそうです」
次子は、声をさらに潜めた。
「そして、宴での毒の混入も……」
「詳しく聞かせてくれ」
「三日前の宴で、藤原義光様、藤原泰房様、源時信様の三名だけに、特別な酒が出されたそうです」
「特別な酒?」
「ええ。“右大臣様から、功を労う”という名目で。しかし、その酒に、附子が少量混ぜられていた」
次子は、真薫を見た。
「給仕を担当した者は、右大臣様の密命を受けていました。三人だけに、その酒を出すように、と」
真薫は、拳を握りしめた。
「やはり、計画的な犯行だったのか……」
「そして、四郎様に“呪詛だ”と報告させる。それで、左大臣派を弾劾する」
「……」
「四郎様、どうか無理をしないでください」
次子の目が、潤んだ。
「あなたが真実を暴けば、右大臣様はあなたを……」
「わかっている」
真薫は、次子をまっすぐに見つめた。
「なみ、心配してくれてありがとう」
「四郎様……」
「だが、私は……」
真薫は、言葉に詰まった。
また、嘘を吐くのか。
また、真実を隠すのか。
「私、あなたを失いたくない」
次子は、涙声で言った。
「だから、お願いです。従ってください」
「……なみ」
真薫の胸が、痛んだ。
幼い頃、隣家の庭で遊んだ次子。
「四郎」「なみ」と呼び合った、あの頃。
あの頃のように、手を取って、励ますことができたら。
しかし、できなかった。
次子は中宮女房。
真薫は左遷された式部少録。
立場が、二人を隔てている。
「私も、お前を失いたくない」
真薫は、小さく言った。
「だから、お前も気をつけてくれ」
「はい」
次子は、涙を拭った。
「では、私はこれで」
「ああ」
次子が去ろうとしたとき、真薫は言った。
「なみ、いつか必ず——」
言葉は、続かなかった。
何を言おうとしたのか、真薫自身にもわからなかった。
ただ、次子の無事を願う気持ちだけが、胸にあった。
次子は、振り返らずに、牛車に乗った。
真薫は次子が去った後も、静寂に一人佇んでいた。
まだ、立ち去る気にはなれなかった。
月はただ、冷たく光っていた。




