二 旧友
「やあ、真薫」
不意に掛けられたその声に、真薫は驚いて振り向いた。
「顕実殿……」
このような掃き溜めに――式部省怪異雑掌所になど、立ち寄るべきではない男。
藤原顕実。
右大臣藤原道顕の嫡子。
中宮顕子の弟でもある。
そして。
真薫の、大学寮時代の同期でもあった。
「久し振りだな」
顕実は、にこやかに笑った。
「大学寮以来か」
「……何の用ですか」
「冷たいな」
顕実は、肩を竦めた。
「旧友が挨拶に来たのに」
「旧友……」
真薫は、顕実を見た。
「顕実殿は今、右衛門佐と五位蔵人の兼帯でしょう。私とは、住む世界が違い過ぎる」
「ああ」
顕実は少しだけ顔を歪めて頷いた。
「――そうだな」
顕実は、真薫の肩を叩いた。
「お前が、式部省でよりにもよって、怪異雑掌をしていると聞いてな。見に来た」
「……ええ」
「お前は、もっと出世すべき人間だったのに」
顕実の声が、複雑になった。
「検非違使尉として、優秀だった。――それが、こんなところで、こんな扱いとはな」
「顕実殿には、関係ありません」
「そうか」
顕実は、庭先へと視線を流した。
「まあ、いい。ただ――気を付けろ」
顕実の声が、低くなった。
「父上は、お前のことを気にしている」
「……」
「"真薫という男は、賢い。だから、注意が必要だ"と」
顕実は、真薫を見た。
「父上がそう言うときは、警戒しているときだ」
「……忠告、ありがとうございます」
「忠告じゃない」
顕実は、立ち上がった。
「ただの……世間話だ」
顕実は、去っていった。
真薫は、一人残された。
顕実。
大学寮では、良き好敵手だった。
互いに競い合い、高め合った仲。
しかし今、顕実は道顕の――敵の息子だ。
それでも、忠告してくれた。
顕実は、味方なのか。
それとも……。
真薫は頭を振った。
今、それを考えても仕方がない。
重要なのは、警告してくれたという事実のみだ。
「……行くか」
安倍定明と合流し、二人はまず藤原義光邸を訪れた。
「やあ、真薫殿」
定明は、いつもの軽い調子だった。
「また呪詛案件ですか」
「ああ。今回は、右大臣派の貴族が三人」
「三人?」
定明は、眉をひそめた。
「それは……妙ですね」
「何が」
「普通、呪詛は一人ずつ行うものです。三人同時に呪うだなんて、かなり高度な術式が必要ですよ」
「つまり」
「つまり、本当に呪詛なのか、疑問です」
定明は、真薫を見た。
「とにかく、行ってみましょう。現場を見れば、わかります」
藤原義光邸は、三条堀河にあった。
立派な寝殿造。
右大臣派の中堅貴族らしい、堂々とした屋敷だった。
主人の義光は、三十代半ば。従五位下。
蔵人を務める、道顕の側近の一人だった。
「よく来てくださった」
義光は、疲れた顔で二人を迎えた。
「早速ですが、症状をお聞かせください」
真薫が訊くと、義光は頷いた。
「三日前から、高熱が出た。そして、幻覚を見る」
「幻覚?」
「ああ。何か、黒い影が見えると」
義光の声が、震えた。
「医師にも診せたが、原因がわからぬという。これは、呪詛に違いない」
「他に、症状は」
「嘔吐もある。食事が喉を通らぬ」
真薫は、定明を見た。
定明は、首を傾げている。
「義光様、屋敷内を調べさせていただけますか」
「ああ、どうぞ」
真薫と定明は、屋敷を調べ始めた。
寝殿、対の屋、渡殿。
そして、義光の寝所。
「……あ」
定明が、声を上げた。
「何か」
「これ、見てください」
定明が指差したのは、寝所の畳の隅だった。
几帳の裾に隠れるように。
粗末な木彫りの人形が置かれている。
胸に、釘が三本。
「呪物、ですか」
「……みたいですね」
定明は、人形を手に取った。
しばらく見つめて、首を傾げた。
「どうした」
「この人形……新しすぎます」
「新しい?」
「ええ。木の切り口が新鮮です。作られてから、せいぜい数日でしょう」
定明は、人形を裏返した。
「それに、置き方が随分と雑です」
「雑?」
「本物の呪詛なら、もっと隠すはずです。見つかったら、効果が薄れますから」
定明は、真薫を見た。
「――これ、偽物じゃないですか?」




