真実の代償 前編
霜月の夜。
京の都は、冷たい闇に沈んでいた。
検非違使庁の一室で、藤原真薫は死体と向き合っていた。
死者の名は藤原維時。正六位上、文章博士。享年四十二。
遺体は筵を敷いた上に寝かされている。
真薫はその顔を静かに見つめていた。
蒼白な顔。固く結ばれた唇。
わずかに開いた目は、何かを訴えるように虚空を見つめている。
「どう見る、真薫」
背後から声がかかった。
真薫の同僚、検非違使尉、藤原成光である。
真薫と同じく従六位下。真薫より五歳ほど年長で、温厚な性格の男だった。
「症状を見る限り、毒物による死と考えます」
真薫は冷静に答えた。
「口の周りに痙攣の痕跡がある。そして、嘔吐の形跡に、指先の硬直。これらは附子の毒に見られる特徴です」
「ほう」
成光は感心したように頷く。
「さすがだな。だが、佐様はそうはお考えではないようだ」
「季房様が?」
訊き返す真薫に、成光は声を潜めた。
「この事件は呪詛による怪死として処理せよ、とのご命令が下っている」
真薫は眉をひそめた。
呪詛――貴族なら誰しもが一度は聞く言葉だ。
たとえば、人形に釘を打ち、真言を唱え、相手の死を願う。
あるいは人形を屋敷の床下や井戸に隠し、呪う。
方法はさまざまあれど、都では珍しくない話だった。
貴族たちの権力闘争において、呪詛は有効な手段とされていた。
だが——。
「現場に呪物は?」
「ある」
成光は苦い顔をした。
「寝所の北東の隅に、人形が置かれていた。釘が三本、打ち込まれている。陰陽師が調べたところ、強い怨念の気配があるとのことだ」
「その人形を見せていただけますか」
「……真薫、お前、まさか」
「事実を確認したいだけです」
成光は溜息をついた。
「いいだろう。だが、余計なことは考えるなよ」
人形は、検非違使庁の一室に保管されていた。
布で包まれたそれを、真薫は慎重に開く。
現れたのは、粗末な木彫りの人形だった。
顔の部分に「維時」と墨で書かれている。胸に三本の釘。
真薫は人形を手に取り、灯りにかざした。
燭台の炎が揺らめく。
「……成光殿」
「何だ」
「この人形、新しい」
「新しい?」
「ええ。木の切り口が新鮮です。少なくとも、作られてから一月と経っていないと見えます」
「それが何か」
「呪詛は、長期間にわたって行うものです。相手の死を願い、毎夜呪いをかける。少なくとも数ヶ月、長ければ数年。――それなのに、この人形は新しすぎる」
真薫は人形を裏返した。
「それに——」
「それに?」
「埃が少なすぎます」
成光は目を見開いた。
「この人形は塗籠から発見されたのでしょう。ですが、その塗籠は、普段使われていないと聞きました。であれば、埃が積もっているはずです。しかし、この人形にはほとんど埃がついていない」
「つまり……」
「事後に置かれた可能性が高い、と考えます」
真薫は人形を布に包み直した。
「この呪物は、偽装工作です」
成光は深く溜息をついた。
「真薫、お前の推理はいつも正しい。だが——」
「だが?」
「今回ばかりは、その正しさが仇になるかもしれん」
溜息のように囁いて。
成光は少しだけ目を逸らせた。
成光が真薫を連れて邸に戻ると、すでにそこには客が待っていた。
衣冠姿の中年の男。位階は従五位上。
顔には険しい表情を浮かべている。
「……成光、真薫。話は聞いたぞ」
「これは、季房様」
成光と真薫は慌てて平伏した。
藤原季房。
検非違使佐、すなわち検非違使庁の次官である。
実質的に庁務を取り仕切る実力者だった。
「お前たち、余計な詮索をしているそうだな」
季房は鼻の頭に皺を寄せて、唸った。
「申し訳ございません。真薫は優秀な男ですが、やや生真面目すぎるところがあり……」
成光が弁解しようとする。
「生真面目」
季房は鼻で笑った。
「空気が読めぬ、と言え」
真薫は平伏したまま、答えた。
「恐れながら、検非違使の職務は事実の究明にあると心得ます」
「事実とな?」
季房の声が低くなった。
「事実など、誰も求めておらぬわ」
「……」
「維時は、左大臣派の者だ。そして、右大臣藤原道顕様を批判する言を露わにしていた。その維時が、呪詛で死んだ。これは政治的に非常に都合がよい」
「しかし——」
「黙れ」
季房の声が響いた。
「お前如きが、朝廷の政を理解できると思うな。維時の死は、呪詛による怪死。これで決まりだ。――それが、右大臣様のご意向でもある」
真薫は歯を食いしばった。
「私は検非違使として、真実を——」
「真実だと?」
季房は嘲笑った。
「では訊くが、お前の言う『真実』とやらで、誰が救われる? 維時は既に死んでいる。犯人を捕らえたところで、維時は戻らぬ。むしろ、犯人が右大臣派の誰かだとでも判明すれば、政治的混乱を招くだけだ」
「……」
「いいか、真薫。この世は、真実で回っているのではない。都合で回っているのだ。お前はそれを理解せねばならん」
季房は立ち上がった。
「報告書は、呪詛による怪死として提出しろ。以上だ」
御簾を乱暴に跳ね上げ、季房は去っていった。




