32 月夜の余韻
月は変わらず淡く透子たちを照らしていた。
同じ月を見て美しいと感じている、今、この瞬間がとても大切な時間なんだ。
透子は、その大切な時間を壊さぬようただ黙った。
いつまでもこんな時間が続けばいいのに。
だが、自分がヴァレンディアにいる意味を思い出す。
終わりにしなければ。
立ち上がると振り返りカイに言った。
「カイ先生。もうそろそろ戻りましょうか」
「そうだな」
カイも立ち上がり、透子に手を差し伸べる。透子が手を添えると、カイは透子を見つめその手をぎゅっと握り返した。
「カイ先生?」
透子が見つめ返すと、カイは真剣な眼差しで言った。
「透子、私も同じ気持ちだ。本当に、今日は月が綺麗だった」
透子の心臓は大きく跳ね、カイから目を逸らした。
「えっと、はい。本当に綺麗です」
その瞬間、カイは透子を引き寄せた。透子がはっと息を呑んでカイを見つめると、カイは透子を見つめ返して言った。
「帰りも同じようにエスコートする。足元に気をつけろ」
その様子はいつもと変わらなかった。
カイ先生は私のことなんて、なんとも思ってない。意識して、私、ばかみたい。
透子は緊張の糸が切れ少し残念なような、それでいてほっとしたような気持ちになりながら、カイに従った。
温室を出るとレオンがカイを見て驚いた顔をした。
「カイ様。ご一緒だったのですか?」
「そうだ」
そう答え、透子に向き直る。
「透子、部屋まで気をつけて戻れ。では失礼する」
「はい。カイ先生、ありがとうございました」
そう言って透子が頭を下げると、カイはふっと微笑みその場を去っていった。その背中を見つめ透子は、この散歩が終わってしまうのを名残惜しいと感じていた。
レオンはカイの後ろ姿を見つめて言った。
「カイ様があんなにお優しい表情をなさるのを、私は初めて見ました」
透子はカイが去っていった空間を見つめながら答える。
「はい。私もあまり見たことがありません」
するとレオンはこちらをじっと見つめた。透子はその視線に気づき見つめ返す。
「レオンさん? どうしたんですか?」
レオンは苦笑し、首をゆっくり横に振った。
「いいえ、なんでもありません。では、透子様。お体が冷えるといけません。行きましょう」
透子はレオンの差し出す手を取った。
部屋でベッドに潜ると、思い出すのはカイのことばかりだった。
もしかしてカイ先生も私のことを? そんなわけないのに、なんでこんなこと。それに私はお后候補だし。
それにしても、温室での時間は素敵だったな……。月が綺麗ってもしかしてヴァレンディアでも同じ意味があるのかな? まさかね。そんなわけないよね。
とりとめもなくそんなことを考えてしまい、気持ちを抑えるのに必死になったが、その努力もむなしく、胸が騒ぎ、ふわふわするような感覚に襲われた。
寝付くことができたのは朝方になってからだった。
翌朝、鏡の前に座ると鏡に映るフィオナが笑っていることに気づく。
「フィオナさん? どうしたんですか?」
するとフィオナは優しく微笑み返した。
「今、珍しく透子様が鼻歌を唄ってらしたので、なにかいいことがあったのかと」
そう指摘され、透子は自分が鼻歌を唄っていたことに気づくと、恥ずかしくなった。
「いえ、ちがうんです。鼻歌はなんか自然に出てしまっただけで、別に浮かれてるわけじゃないんです」
フィオナはそれを聞いて不思議そうな顔をする。
「浮かれてる? 透子様、浮かれているんですか?」
痛いところをつかれ透子は頬を赤くして慌てて答える。
「ち、ちがいます! そんなことはありません」
「はい、そうなんですね。では私の勘違いでした。すみません」
「謝らないでください。全然そういうことじゃないので」
「はい」
「あの、フィオナさん。訊きたいことがあるんですけど」
「なんでしょうか?」
「ヴァレンディアで『月が綺麗』ってなにかの例えだったりしますか?」
フィオナは首をかしげる。
「『月が綺麗』ですか? さぁ、聞いたことがありません。誰かの詩ですか?」
だよね、私なに期待したんだろう。
透子は少し気落ちしたが、それを隠すように微笑んだ。
「え、いえ。ちょっと訊いてみたかっただけで、なんでもありません。忘れてください」
「はい……」
フィオナは困惑した様子で返事をすると、そこでなにかを思い出し、今度は困ったような顔になると言った。
「ところで透子様」
「は、はい。なんですか?」
「今回はいつも愛用されている『魔法のペン』をお持ちにならなかったのですか?」
透子はこの世界に来てから、最初に使ったあのペンを気に入り使用していた。持ってきていないはずがない。
「え? ケースに入れたまま、荷物に入れたはずだけど。どこだったかな?」
「お荷物の中にはありませんでした」
言われてどこに置いたのか考える。最後に授業を受けたときには確かにあったはずだ。そのままペンケースに入れ、ペンケースごと持ってきているのでなくなるはずがない。
気に入ってたのにな、どこに置いたんだろう。
「あ、もしかして、教室に置き忘れたのかもしれません」
「そうですか。ならいいのですが」
「フィオナさん。それよりもう朝食の時間になります」
「そうでした。では、すぐに支度を整えましょう」
フィオナが透子の髪を結い上げると、急いで朝食を摂り、約束の時間にエントランスへ集まった。
間に合った〜。
透子の姿を見つけたファニーは駆け寄ると、興奮気味に言った。
「シャイニングプリンセス! この村最高だよ〜。それにこの屋敷の庭も、温室も!!」
「温室……」
そうつぶやき、昨夜のことをまた思い出す。ファニーがそんな透子の顔を不思議そうに覗き込んできたので、透子は必死にそれを頭から振り払った。
「そうですね、とても綺麗な温室ですよね」
なんとか取り繕うと、ファニーは嬉しそうな顔をした。
「でしょ〜! さすがシャイニングプリンセス。僕と見るとこ一緒だねぇ」
そんなことを話していると、突然肩を思い切り叩かれる。
「おはよう、透子」
鈍く痛む肩を押さえながら、振り向くと留里だった。
「留里!?」




