第十話 好きな人
二限の線形代数がよく分からない。そもそもの話、ベクトル空間の概念がよく分からない。高校の時は自分よりも下の人の理解度に合わせて授業が進んでいたため、なんでこんなことも分かんないんだろうなんて思いながら過ごしていた。しかし、学生の理解度にあまり差がない場合は一人が理解できているということは全員が理解できているという前提でガンガン授業が進んでいってしまう。そのため少し気を抜くと、写像、正規化、正方行列など知らない単語が増えていき、ああもういいや、とさじを投げてしまいそうになり、ペン回しばかり上達してゆく。
一年生のうちは教養科目ばかりだ。今受けているこの線形代数の授業も、図書館裏にある総合校舎のG3棟というかなり大きな講義室に、理系の学部生がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、知らない人ばかり。そのため、わからないところを聞く人もいない。一応安藤がいるか探してはみたが、いなかった。
数学なんて将来使わないのになんで勉強する必要があるのなんていいことを、特に文系の女の子は言っていたが、将来使うことになる側の身にもなって欲しい。将来絶対使うからちゃんと理解しなければならないのに理解できないほうがよっぽど数学が嫌いになる。
十二時になると、周囲の学生が昼食の話をしながらバタバタと教科書をカバンにしまい始めたので、僕も出した時から何も書き込まれていないノートをカバンにしまって外に出た。総合校舎の近くにある、ライフセンターと呼ばれる大学生協で適当におにぎりを買い、帰るために西千葉駅に向かった。総合校舎はキャンパスのかなり奥まったところに位置しているため、西千葉駅のまではかなり距離がある。
「あ、てっぺー!」
僕が図書館前の開けた広場を歩いていると、突然大きな声で名前を呼ばれた。見てみると、語らいの森と呼ばれる図書館の前の休憩スペースで友達とご飯を食べている木ノ葉が手を振っていた。
僕は手を振り返した。挨拶。大学ではよくある光景。それでも、僕は手を振るような友達もいなかったし、学部学科がバラバラのミスコンの人とキャンパス内で会うのも初めてだったので、知り合いに会えて少し嬉しかった。そして僕は再び駅に向かって歩き始めた。
「あ、違う! ちょっと、待って!」
再び遠くで木ノ葉がそう言ったので、僕は足を止めて振り返った。木ノ葉はカバンを手に取ると、一緒にご飯を食べていた人に軽く手を振って僕の方に駆け寄ってきた。
「なんで無視するの?」
木ノ葉はリュックの紐のねじれを直しながらそう言う。
「手振ったじゃん」と僕。
「こっち来るかと思ってたら、どっか行くからびっくりした」
今度はトレーナーの裾を引っ張りながら木ノ葉はそう言った。
「ごめん。で、何? 今帰るところなんだけど」
木ノ葉は友達といたわけで、そんなところに入ってゆく勇気が僕にはないことをこの人に言っても理解はできないだろうから、余計なことは言わない。
「お昼食べた?」
木ノ葉がそう言うので、僕は手提げ袋に入った三つのおにぎりを見せた。
「まだなんだ。じゃあ一緒になんか食べない?」
「いや、このおにぎりはこれから食べるんだけど」
僕はおにぎりを見せた意味を口で説明した。
「後で食べればいいじゃん」
木ノ葉はそう言った。確かに、と僕は思った。
「まあ、いいけど、いいの?」
僕はなんとなく語らいの森にいる木ノ葉の友達を遠巻きに見た。するとその二人も遠巻きにこちらを見ていた。
「何が?」
木ノ葉はそう言うと、また一緒にいた友達に手を振った。友達も木ノ葉に手を振った。
「いや、何でもない」
僕はそう言うと、木ノ葉は「じゃ、いこっか」と言いながら西千葉駅とは別の方向である、現在地から程近い、大学の正門を指さした。
「何の授業だったの?」
正門に向かって歩き出すと、木ノ葉は僕にそう言った。
「数学だよ」
「えー、数学なんて将来使わないのになんで勉強するんだろうね」
木ノ葉がそう言った。そう言えばこの子は文系の女の子だった。
「使うんだよ。将来」
「何に?」
「それは知らない」
「それ知らないのに勉強してるの?」
「うん。でも噂によると使うらしい」
「大変だね。理系って」
木ノ葉は興味なさげにそう言った。
正門を出てすぐの横断歩道を渡った僕たちは、近くのアメリカンダイニングのようなお店に来た。おそらくカルフォルニアをイメージしている店内にはサーフボードや旧車のナンバープレートなどが飾られており、何というか、オシャレ。
僕は食券機でローストビーフ丼を買った。木ノ葉はシーザーサラダだけを買った。
「ご飯食べないの?」と僕。
「うん。さっき食べた」と木ノ葉。
「え、じゃあ何しに来たの?」
「え、普通に話しに来た」
「それだけ?」
「え、変?」
僕が驚く方だと思っていたが、木ノ葉の方が驚いている様子だった。
「まあ、いいけど」
僕はそう言って席に着いた。木ノ葉は無料のコンソメスープを二つ持ってきてくれた。ありがとう、と僕は言った。
店内には、まばらではあるが他にも客がいた。別に見られているわけではないが、女の子とご飯に来るのが初めてだった僕は少し居た堪れない感じになる。
「てっぺー、全くSNS更新しないんだね」
木ノ葉がそう言う。ショッピングモールでのイベントから一週間が経過したが、その間で僕は一度も更新していない。というか、最初の自己紹介文以来一度も更新していない。
「まあね」
何をしに来たんだろうという気持ちが抜けずに、イマイチ会話に身が入らない。
「せっかくだから、写真撮ってよ」
木ノ葉はそう言うと、スマホを僕に渡してきた。僕がカメラを構えると、木ノ葉はテーブルに両肘を立てて、掌に顎を乗せると、カメラから視線を外すように外を見た。僕はシャッターボタンを押した。
「どう?」
僕は撮った写真を木ノ葉に見せてそう言った。
「んー。もう一枚。というか、何枚か連続で撮ってよ」
木ノ葉はそう言うと、もう一度同じポーズをとったので、僕は五枚くらいいい感じのタイミングで撮影
した。
「どう?」
僕はもう一度木ノ葉に見せた。木ノ葉はじっくりと一枚ずつ見て、「うん。いい感じ」と言った。木ノ葉は一週間に三回くらいはSNSを更新していて、六人の中では雪の次に頻度が多い。もちろん雪は毎日更新している。
テーブルにシーザーサラダとローストビーフ丼が運ばれてきた。ローストビーフ丼は、銀の楕円形の平皿に綺麗に盛られていて、半分がローストビーフ丼で、もう半分はシーザーサラダになっていた。山型に盛られたローストビーフの頂点には卵黄がちょこんと乗っている。
「え、それめっちゃおしゃれだね」
木ノ葉が僕のローストビーフ丼を見てそう言った。
「ね」
僕がそう言ってスプーンをローストビーフ丼に刺そうとすると、木ノ葉が僕の腕をがしっと掴んでそれを防いだ。そして、ゆっくりと卓上の二つの料理の場所を入れ替え、僕に再びスマホを渡してきた。目が合うと、木ノ葉はにっこりと笑った。
「それはずるいんじゃない?」と僕。
「いいの。それに、女の子はよく食べる方が可愛いの」
木ノ葉はそう言いながら、僕のフォークとスプーンを手に取り、顔の近くで掲げてにっこりと笑った。僕はローストビーフ丼と木ノ葉がしっかり画角に収まるように撮影した。
「おお、いい感じ」
木ノ葉は僕が撮った写真を見てそう言うと、あろうことかスプーンをローストビーフ丼に突き刺し、そのまま一口食べた。
「僕のなんだけど」
「えへへへ。美味しい」
木ノ葉はへらへらとそう言った。そんな風に言われると、まあいいか、という気になってしまう。
「そういえば、例の男の人とはどうなってるの?」
僕は形が崩れたローストビーフ丼を取り返しながらそう聞いた。
「あ、それ聞く?」と木ノ葉。
「いや、別に言わなくてもいいけど」と僕。
僕がそう言うと、木ノ葉は「うーん」と考えながらシーザーサラダをパクっと一口食べた。
「ねえ、洋平さんって彼女いるのかな?」
木ノ葉がそう言った。僕はびっくりして手が止まった。
「え、木ノ葉の好きな人って、洋平さん?」
僕は周囲を見回した後、小さな声でそう言った。
「当り前じゃん」
木ノ葉は何故か開き直ってそう言う。
「当り前なんだ」と僕。
「だって、面白いし、コミュ力高いし、カッコいいし、仕事できるし、でもたまに抜けてるところあって
可愛いし、みんなのために一生懸命頑張ってて偉いし。普通に考えて彼女いないわけないよね」
「そ・・・うかもね」
そんなことないと思うけど、と言いそうになり急いで真逆に舵を切った。
「何か知らないの?」と木ノ葉。
「いや、知らないな。聞いてみようか?」
僕はスマホを取り出しながらそう言った。
「いや、聞かなくていいよ。怖いし」
木ノ葉はしょぼくれてそう言う。
「そうか、まあ、いいけど」
「え、本当に聞かないの?」
スマホをしまおうとすると、木ノ葉は物欲しそうな目でそう言った。
「え、聞いて欲しい?」と僕。
「いや、聞かなくていい」と木ノ葉。
「どっち?」
困惑しながらそう言うと、木ノ葉はムッとした。
「そりゃ私は聞かないでって言うじゃん。でも男子はふざけて聞くもんじゃん。私はまんざらでもないけどやめてよって言うじゃん。空気読んでよ」
木ノ葉がそう言う。
「何だそれ。じゃあ聞いていいんだな?」
「好きにすれば」
木ノ葉はそう言うと、指先で髪の毛をくるっと巻いた。
僕は三度スマホを取り出し、「そういえば、洋平さんって彼女いるんですか?」と送った。
「いつから洋平さんが好きなの?」
「え、何急に」
「全然急じゃないと思うけど」
僕はそう言うと、ようやくローストビーフ丼を一口食べた。
「私、洋平さんにスカウトされたんだけどさ、急に話しかけられて、びっくりはしたんだけど、別に嫌な感じはしなくてさ。ご飯奢ってくれるっていうから着いて行ったの。で、話してみたら面白いし、楽しいし、いっぱい可愛いって言うし、ちょっと気にはなってた。それで、帰ってからミスコンに出なかったもう会えないことに気が付いて、そしたらなんか寂しくて、だから出ることにした」
「へえ。いいね」
「何そのリアクション。で、ミスコンで会ったらもっとカッコよくて」
「好きになったんだ」
「まあ、うん。そう」
木ノ葉はそう言うと両手でコップを掴んで水を一口飲んだ。
「だから、別にミスコンで勝ちたいとかはあんまりないけど、写真とかはいっぱい投稿しようかなって思う。たぶん洋平さんは全部見てるし」
「まあ、そうだろうね」
僕がそう言うと、スマホが振動した。『おらんけど、何やねん急に』と洋平さんからメッセージが入っていた。
「返信来たよ」
僕がそう言うと、木ノ葉は目を大きくし、息を吸って呼吸を止めた。それが少し面白くて僕は黙っていると、木ノ葉はぶはっと息を吐いた。
「ねえ、早く言ってよ」
「いないって」
僕がそう言うと木ノ葉は安心した表情をした。
「洋平さんから『なんで?』って来てるけど、木ノ葉が好きなこと言っていい?」
「え、ダメ。ダメダメ」
木ノ葉がそう言う。
「それは言って欲しいやつ?」
「ほんとにダメ!」
「どっち?」
「ダメだって! これは本当にダメなやつ!」
木ノ葉は大声でそう言うと、立ち上がって僕からスマホをぶんどった。木ノ葉が座っていた椅子が後ろに倒れて他のお客さんの視線が集まる。
「あ、ごめんなさい・・・」
木ノ葉は店全体に軽く頭を下げると、椅子を立てて再び座った。
「はあ。恥ずかしすぎる。最悪」と木ノ葉。
「彼女いないんだって。良かったね」
僕がそう言うと、木ノ葉は口を不満そうに尖らせながら嬉しそうに頬を緩めた。今まで見てきた木ノ葉の中で一番変な顔をしていた。
食事を終えて店を出た。店から西千葉駅までの道路沿いを歩いていると、
「そう言えば、前てっぺーは手伝ってっくれるって言ったよね?」
と木ノ葉は言った。
「応援するって言ったんだけど」
「じゃあさ、ついでに洋平さんの時間割聞き出してよ。一週間全部。教室と空きコマも」
木ノ葉はそう言う。
「なんで?」
「いや、最近私はずっと語らいの森でお昼食べてたの。いつか洋平さんが通ると思って、なのに全然通らないからさ。で、てっぺー見つけたから、もうてっぺーでいいやって思って声かけたんだけどさ」
「ひどいな」
「大学でばったり会うためにはちゃんと待ち伏せしないとダメだなって思って」
「そればったりって言わないけどな。ていうかメッセージ送ればいいじゃん」
「えー、それはガチじゃん」
「いいじゃん。ガチで」
「最初はもっと自然な感じがいい」
「待ち伏せの方が不自然だと思うけど」
「いいから。時間割を聞き出して。今日中に」
「今日中?」
「そう。善は急げっていうじゃん」
「ストーカーは一般的には悪とされてるけど」
「うるさい」
木ノ葉はそう言うと、僕の脇腹を小突いた。
家に帰った僕は、洋平さんに時間割を聞いた。洋平さんは何かを勘ぐっている様子はありながらもすんなりと時間割を教えてくれた。分からないけど、ここまで怪しい動きをした後に、突然休み時間に木ノ葉と「ばったり」出会ったらさすがにバレそうな気もしたが、木ノ葉の場合はむしろバレたほうが話が早い気がしたので特に僕は何も言わなかった。




