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父に会うその前に

王からの返書は、思ったよりも早く届いた。

魔族の王――すなわちスゥの父王は、当初こそ疑いの眼差しを向けていたものの、送られた書状の内容とともに、スゥの指に嵌められていた小さな黒曜石の指輪――それがかつて魔族の姫だけに与えられた特別な証であったことで、会見の申し出を受け入れる旨を返してきたのだった。


「……じゃあ、本当に、行くんだね。魔族の王のところへ」


リディアが唇を噛みながら言った。

その声に、少しの不安と……共に行けない悲しみが滲んでいるのを、ユーリは感じ取っていた。


「ええ。王都を代表して行くのは、私とユーリだけ……って、決まったの」


スゥが淡々と、しかしどこか寂しげに答える。

彼女の紫色の髪が窓から差し込む朝日に照らされ、ほのかに淡い輝きを帯びていた。


「すぐに帰ってくるんでしょ? 何ヶ月も帰らないなんてこと、許さないんだからね。こちらの事は任せといて、しっかり結婚式の準備進めとくから」


リディアがぶっきらぼうに言う。

その後ろで、アリアは小さく笑みを浮かべていた。


「無事を、祈っています。……スゥさん、兄様」


その柔らかく、祈るような声に見送られて、ユーリとスゥは王都を後にした。


* * *


道中、馬車の外は一変していた。


かつて美しかった草原には、深い轍と泥が刻まれ、ところどころに倒れた木や黒焦げの痕があった。

遠くで、焦げた匂いと共に、戦の痕が風に乗って鼻を突く。


スゥは窓辺に頬杖をつきながら、無言でその景色を見ていた。

ユーリもまた、言葉を探しては、沈黙の中に飲み込まれていた。


「……ユーリ」


しばらくして、スゥがぽつりと口を開いた。

小さな声だった。けれど、はっきりと届いた。


「父に…家族に…会えるんだね……私」


「そうだな。きっと、喜んでくれる」


ユーリは穏やかに頷く。

だが、スゥは微笑まなかった。


「私……ずっと、父がどんな顔だったか、思い出せなかった。

 でも、少しずつ夢の中で思い出すようになったの。……広い背中だった。あったかくて、大きくて……怖かったけど、優しかった」


彼女は小さく笑った。


「思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなるの。……ねえ、ユーリ。

 もし父に会ったら、私……元の場所に戻らなきゃいけないのかな」


「……スゥ」


「私は姫…だから。王族としての務めがある…かも。

 もうユーリの隣に…いられなくなる…怖いよ…」


スゥの声は震えていた。

彼女が感情を隠さず語ることは、珍しい。いや、彼女にとっては、ほとんど初めてのことだった。


「そうなっても、私は……あなたのこと、忘れたくない。

 記憶を亡くした私を救ってくれたこと。傷ついた私の手を握ってくれたこと。兄さんのことを、私の代わりに背負ってくれたこと」


スゥはそっとユーリの手に触れた。


「……あの時、私、心が壊れそうだった。だけど、ユーリがいてくれたから、今の私がいる」


静かな馬車の中。

ガタガタと揺れる車輪の音だけが、しばしふたりの間を埋めていた。


ユーリはその手を握り返すと、静かに言った。


「俺も同じだ、スゥ。お前がいてくれたから、ここまで来られた。……それは、変わらない。例えお前がどこに戻っても、心はここにある。俺の隣に」


スゥは黙っていた。

その沈黙は、長いようで短く、短いようで長かった。


やがて、彼女の頬に、そっと一粒の涙が伝った。


「……ずるい…、ユーリ。そんなこと言われたら……もっと、頼りたくなる…」


照れくさそうに、けれど確かな笑みを浮かべたスゥに、ユーリはそっと微笑み返した。


その時、馬車が止まった。


「陣地の手前です。ここからは徒歩で向かっていただきます」


案内の兵士の声に、ふたりは小さく頷いた。


扉が開かれると、冷たい風が顔を撫でた。だが、それよりも強く二人を打ったのは、鼻を突く血と薬草の匂い、そして漂う焦げた鉄のような重苦しい空気だった。


外に出ると、そこはまさしく戦の最前線だった。


空は曇天に覆われ、陽の光は地表に届かず、薄灰色の空の下に仮設のテントが幾重にも並んでいた。歩くたびに、泥に染まった草が足元で重たく音を立て、遠くから微かに、だが確かに響いてくる呻き声と咳き込みが、空気を震わせていた。


通路の脇には、担架に乗せられた兵士たちが次々と運び込まれ、治療所と呼ぶにはあまりに簡素な布張りの小屋の中へ消えていく。その中の一人が、苦しげにうわごとのように母の名を呼んでいた。


若い兵士だった。ユーリと年が変わらないかもしれない。

左腕はすでになく、包帯の隙間からは血が滲み出ている。彼を運ぶ兵士の顔にも、疲労と諦めが混じっていた。もはや助からない命だと悟っているのだろう。


「……こんな戦い、終わらせなきゃ」


スゥがぽつりと呟いた。


その声は、かすかに震えていた。けれど、瞳には確かな光が宿っていた。


ユーリはその横顔を見つめ、静かに頷いた。

――そのために、これからスゥの父王、魔王のもとへ向かうのだ。


少し進むと、道の傍に設置された焼けた荷車が目に入った。かつては兵站用の食料を積んでいたのだろう。焦げたパンや割れた瓶の破片が散乱しており、その上に血の付いた包帯が無造作に放り出されていた。


スゥは立ち止まり、小さく息をのんだ。


荷車の陰に、小さな手があった。子どものものだ。

すでに冷たくなった遺体に、誰も気づいていないのか、それとも手が回らないのか。

戦場では、命の重ささえ等しくない。


「……誰かの家族だったんだよね。きっと……笑ってた時間もあったのに」


スゥの声は、涙を堪えるように震えていた。


ユーリは無言でその手を見つめた後、そっとスゥの肩に手を置いた。

彼女の震えを、わずかでも和らげるように。


「こんな現実を……見てしまったら、もう、何もかも放ってはおけないよ」


スゥはぎゅっと拳を握った。紫の髪が風に揺れ、彼女の褐色の肌に影を落とした。


「戦争を始めたのは、私が死んだと誤解されたから……だった。なら、私が生きていると証明して、終わらせなきゃいけない。こんなものを、これ以上続けさせちゃいけない」


「……ああ。俺たちが止める。お前の父さんと、ちゃんと話して」


ユーリの言葉に、スゥは小さく頷いた。


二人は再び歩き出した。肩を並べ、前を向いて。


彼らの進む先には、まだ何も見えていない。だが、その一歩一歩が、この地に灯るかすかな希望になればと願いながら。


重苦しい曇天の下で、二人の足音が静かに響いていた。

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