その瞳に、誓うこと
王都を包む空気は、数日前とはまるで別物だった。
あの夜――スゥが王に己の正体を明かし、魔族との戦の火種に和解の芽が灯ったあの日から、街全体を支配していた緊張の糸がわずかに緩んだ。人々の顔からはほんの少しだが不安が消え、兵士たちもまた、焦燥の中に落ち着きを取り戻していた。
だが、それでも戦は終わっていない。
前線では未だに小競り合いが続き、王都には戦時下の張り詰めた空気が残っていた。
その中で――誰よりも激しく、己を削って動いていた者がいる。
王国第一王女、エステル――
「エステル様、どうか今夜はお休みください! もう三日もろくにお休みになっておられないのです!」
「後でいいわ。今は――今だけは、眠っていられないの」
背筋を伸ばして言い切るその声は、凛として澄んでいた。
エステルは今、玉座ではなく、王都の臨時指揮本部にいた。広げられた地図と戦況報告書の束の上に、痩せた指先を這わせる。小さな体を包むのは、煌びやかなドレスではなく、ほつれた縁のある実戦用の軍装。数日前に小さな戦地に赴いたまま、まだ着替える時間すら惜しんでいた。
鮮やかな白銀の巻き髪は乱れ、目の下には隠しきれない疲労の影。けれどその瞳だけは、生き生きと燃えていた。
「アレク。南方防衛線の配置を再検討して。あと、レミアの部隊を一時後退させて補給を」
「かしこまりました、エステル様!」
次々と飛び交う指示。そのひとつひとつが的確で、鋭く、兵士たちの間でも「戦場の白姫」と称されるほどに信頼されていた。
だが、その姿を見たとき――ユーリは胸が締め付けられた。
「……エステル」
ふと目を上げたエステルと、視線が合った。
その瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬、心の奥の何かが溢れそうになった。
「ユーリ様……」
乾いた声で、彼の名を呼ぶ。だが次の瞬間には、彼女は背筋を伸ばし、口元に微笑みを浮かべていた。
「来てくれて……嬉しいわ」
彼女の笑顔は、美しかった。ただ、それ以上に痛々しかった。
ユーリは黙って頷き、近くの椅子を引いて向かいに腰掛ける。部屋にはまだ数人の将校が残っていたが、エステルが小さく手を振ると、全員が静かに退室していった。
沈黙の中、ふたりきりの空間。
「……どうかしたのか?」
「ええ、少しだけ。あなたと、話がしたくて」
エステルは、少し戸惑うように微笑む。そして、組んだ膝の上で両手を重ねて指を絡めながら、ぽつりと口を開いた。
「スゥ……あの子、魔族の王女なのよね?」
「……ああ。本人の口からも聞いたよ。すべてを、思い出したって」
「そう……そうなんだ」
視線を落としたエステルは、微かに唇を噛んだ。普段の堂々とした彼女とは違う、どこか不安げで、壊れそうな少女のような面差し。
「私ね……ずっと思ってたの。王女として、国を守る責務を果たさなきゃって。周りには強すぎるって言われるけど、それでも、あなたに褒めてもらえるのが嬉しくて……」
ユーリは彼女の声に耳を傾けた。そのどれもが、彼が知らなかったエステルの“素顔”だった。
「でも、ふと気づいたの。あなたの隣にいる時のスゥは、すごく自然で……無理をしていない。私は……あなたの隣で、あんな風に過ごしてみたかった…」
そう呟いたとき、彼女の声はほんの少し震えていた。
「スゥは魔族の姫。でも……私だって、この国の第一王女よ。家柄では、引けを取らない。けれど、何かが違うの。あなたが彼女を見る目が……。あんな眼差し、私には向けてくれたことが……なかった」
息を吸い込んで、吐く。彼女の瞳は真っ直ぐにユーリを見つめていた。
「ねぇ、ユーリ様。私には、何が足りなかったの? 王女としてじゃなくて……一人の女の子として、何が、届かなかったの……?」
それは、王女の声ではなかった。
一人の少女が、愛する人に手を伸ばす、その心の声だった。
「私……初めてだったの。あの時、あなたとキスをしてから……ずっと、あなたが好きで。こんなにも誰かを想うのは初めてだったの。嫁ぎたいと……心から願ったのは、あなただけ」
その声に、嘘はなかった。強く、美しく、けれど今はとても脆い。崩れてしまいそうな想いを、彼女は震える手で、必死に抱きしめていた。
ユーリは、そっと立ち上がった。そして、エステルの目の前に立ち、彼女の肩に静かに手を置く。
「……ありがとう、エステル。想いを、伝えてくれて……本当に、嬉しい」
その言葉に、彼女の瞳が揺れる。声を失い、ただ息を呑む。
「今の俺は、まだ気持ちに整理がついていない。スゥのことも、他の皆のことも。自分自身と、きちんと向き合えていないんだ」
「……それでもいいの。私は、無理に応えてほしいわけじゃないの。聞いてくれたら、それだけで……」
「でも、俺は逃げない。これからは、エステルのことも真剣に考える。王女だからじゃなくて、一人の女性として」
その瞬間、彼女の表情が、ゆっくりとほどけた。
涙は、こぼれなかった。
代わりに、笑った。
それは、肩に積もった重圧がほんの少し溶けたような、そんな微笑みだった。
「……うん。待ってるわ。どれだけでも、待ってみせる」
静かな夜。王都の空には、久方ぶりに星が瞬いていた。
戦火が包む国の片隅で、ようやく誰かが、真っすぐな想いを伝えられたからかもしれない。
ユーリは、窓辺に立って星を見上げながら、そっと呟いた。
(……俺は、逃げない)
スゥも、エステルも、他の誰も。
その想いに、応えられるように。
今、できるすべての誠意で、真っ直ぐ向き合っていこう。
やるべきことはまだ山ほどある――だが今夜は、誰かのために胸を張って、未来を誓う夜だった。




