魔族のお姫様
春の柔らかな陽光が、ゆっくりとカーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。
ユーリの屋敷にある客間のひとつ。中庭に面したその部屋で、スゥは浅い眠りの中にいた。
瞼は重く、息はかすかに乱れている。だが、それは穏やかな夢とは言えなかった。
彼女は――夢の中で、あの「森」にいた。
懐かしい草の匂い。湿った土の感触。朝露に濡れた葉が頬を打つ感覚までもが、ありありと蘇る。
「兄さん……!」
駆ける足音。必死に走っていた。背中に抱えられるようにして、兄の腕に抱かれ、森の奥へ、奥へ。
「もう少しだ、スゥ。……絶対に、絶対に逃げ切るぞ」
兄の声は、荒く、それでも優しかった。
肩から血を流しながら、それでも決して止まらなかった。妹を――スゥを守るためだけに、命を振り絞っていた。
後ろから聞こえる怒声。獣のような唸り。何かが追ってくる。息が詰まりそうだった。
そして――
「ここまで来れば、きっと……大丈夫だ」
急に立ち止まった兄は、スゥをそっと地面に下ろす。
目の前には、木の根元にできた小さな洞。小柄なスゥが潜るには十分な隙間があった。
「ここに隠れていろ。何があっても、声を出すな」
「兄さんも……一緒に隠れよう? ねぇ、一緒に……!」
必死に縋るような声に、兄は優しく、けれど悲しげに微笑んだ。
「お前だけは、生きてくれ。俺の……大事な、大事な妹なんだ」
その言葉に、スゥの中の何かが、ぱきりとひび割れる音を立てた。
「行くな……いや……いやだよ……!」
「泣くな、スゥ。お前は……泣き顔より、笑ってる方が、ずっといい」
その言葉とともに、兄は手の甲で彼女の涙を拭い、最後にそっと頭を撫でた。
「大丈夫。――きっと、また会える」
その背が、去っていく。振り返ることはなかった。けれどスゥは、振り返ってしまった。
あのとき、見たのだ。
兄の背に――槍のような何かが突き刺さり、血が弧を描くのを。
叫びたかった。声は出なかった。
そのまま世界が、音を失ったように沈黙する――
「……っ!」
スゥは、目を見開いて飛び起きた。
寝台の上で、しばらく息が整わない。まるで肺が圧迫されたように苦しくて、心臓が暴れ回るように鳴っていた。
夢。……けれど、夢ではなかった。
それは確かに、自分が見た“最後の記憶”。
兄が、自分を庇って命を賭けた、あの瞬間のすべて。
涙が止まらなかった。
「兄さん……ごめんなさい……。あの時……私、逃げただけで……」
震える指が、握ったシーツに食い込んでいく。
「でも……兄さんの顔……最後まで、あんなに優しかった……」
その時だった。
「スゥ!」
部屋の扉が開き、駆け込んできたのは――ユーリだった。
きっと、彼女のうなされる声に気づいたのだろう。寝間着のまま、彼は迷いなく彼女のそばに来て、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫か……? なにか、見たのか……?」
「……思い出したの……兄さんの、最後の顔……」
震える声。押し殺した嗚咽が混じるその声に、ユーリは言葉を失う。
「何もできなかったの……でも……それでも、私を守ってくれたの。自分の命よりも、私のことを――」
その想いが、ついに堰を切ったようにあふれ出した。
スゥは、ユーリの胸にしがみつくようにして、静かに、深く、泣いた。
誰にも見せなかった涙。記憶がなかったから、泣けなかった悲しみ。それがようやく形を成し、あふれていく。
ユーリは黙って彼女を抱きしめた。言葉はいらなかった。ただ、包み込むように、その背を撫でた。
スゥは――兄の想いを、ようやくその胸で受け止めることができたのだった。
数分後。
泣き疲れて、少しだけ落ち着きを取り戻したスゥがぽつりと口にする。
「……昨日、ユーリが倒したキメラ。あの獣人の人も、救われたのかな……兄さんも、あぁそうだったのかもしれない、って……救われたのかもしれないって…そう思っても、いい?」
ユーリは目を伏せる。だが、嘘はつかなかった。
「……あの目を見た時、俺も、苦しんでる…そう思った。助けてほしそうな目をしていた」
スゥは静かに頷いた。涙の跡を拭いながら、絞り出すように言った。
「じゃあ……あの子を、楽にしてくれて……ありがとう」
その声はかすれていたが、真っ直ぐで、澄んでいた。
それは、ようやく彼女が過去と向き合い、前に進むための、第一歩だった。
「それでね…ユーリに話しておかなければいけない事があるの、私過去を思い出した…全部」
スゥは、少しだけ視線を落とした。けれど、すぐに真っ直ぐにユーリを見上げる。その瞳には、覚悟と……ほんの少しの怖れが混じっていた。
「私……魔族の姫だったの。記憶を亡くすほんの少し前まで……魔王の血を引く者として、城にいたの。黒衣の悪い人達に攫われそうになって…近衛兵だった兄さんが身代わりに…私を逃がしてくれて…」
空気が、ゆっくりと変わる。
ユーリは言葉を失ったまま、彼女を見つめていた。だが、その目には驚きはあっても、拒絶も、恐れもなかった。
「……そうか」
ただ、静かに頷いた。その一言の重みが、スゥの胸をじんわりとあたためた。
「本当は……ずっと思い出すのが怖かった。でも、今日あなたと一緒にいた時間が……私の中で、過去と向き合う勇気をくれたの」
「……思い出して、苦しくなかったか?」
「ううん。むしろ……思い出して、少しだけ救われたの。私、捨てられたんじゃなかった。守られてた。……兄さんの手で、逃がされてたの」
スゥの声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
ユーリは、しばらく黙って彼女の言葉を受け止めていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がると、そっとスゥの頭に手を置いた。
「……話してくれて、ありがとう」
それだけだった。
でも、スゥの胸の奥にあった見えない氷が、音もなく溶けていった。




