すれ違う記憶
春の終わりを告げる風が、若葉の匂いを運んでくる。地平の向こうにそびえる王都の城壁を遠くに望みながら、俺たちの馬車は舗装された街道をゆっくりと進んでいた。
結婚式の準備――それが、この旅の目的だ。
花嫁のドレス、会場の打ち合わせ、式次第の確認。貴族として、そして領主としての責務ではあるが、何より大切なのは、一緒に歩む相手たちと向き合うことだと思っている。
「やっぱり、私が選ぶべきよね。アリアに任せたら、絶対に刺繍が多すぎて動きにくくなるわ」
リディアが隣で腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「そうですか? 私は、華やかな装飾も素敵だと思いますけれど……」
アリアは微笑みながら、落ち着いた声で返す。その銀髪が窓から差し込む陽光を反射して、まるで精霊のように柔らかく揺れていた。
会話はいつものように穏やかに――いや、時折軽く火花を散らしながら、続いていく。
そんな中、ただ一人、沈黙を守っている者がいた。
スゥ。
馬車の角の座席で、彼女はずっと黙って窓の外を見ている。紫色の髪が微かに揺れ、瞳は焦点の合わぬまま風景を追っていた。
「……スゥ、疲れてないか?」
俺が声をかけると、彼女はわずかに首を横に振った。
「……ううん。大丈夫」
その表情は、いつも通りだった。無表情で、感情を押し殺すような、深い静けさを湛えている。
けれど――
時折、彼女の視線がふと俺に向けられることがある。 それも、無意識のように。
まるで、何かを探すように。
兄を失った記憶の空白。その残響が、今も彼女の中で燻っているのかもしれない。
俺はそれ以上、何も言わなかった。ただ、彼女が自分の意思で言葉を紡ぐ時を、待ちたかった。
* * *
昼過ぎ。
街道沿いの林が途切れ、小さな丘にさしかかる。馬車を止めて休憩を取ることにした。
「ユーリ、少し歩かない? この辺り、風が気持ちよさそう」
アリアが提案し、リディアも渋々付き合う形で頷いた。
「どうせ、動かなきゃ腰も痛くなるしね。……スゥ、あんたも来なさいよ」
スゥは一瞬迷ったように見えたが、黙って立ち上がり、俺たちの後をついてきた。
丘の上には、小さな古井戸があった。もう長い間使われていないのか、苔むしている。
その脇に、石で組まれた簡素な休憩所があり、木のベンチが備え付けられていた。
「ここ……知ってるかも」
スゥがぽつりと呟いた。
「え?」
「……昔、誰かと……来たような……」
彼女は、ベンチのひとつに手を置いた。指が、石の表面をゆっくりとなぞる。
「兄……だったかも」
その言葉に、俺たちは息をのんだ。
スゥが過去に触れたのは、初めてだった。
だが、その表情に感情は浮かばない。ただ、遠い何かを手繰るような、そんな仕草。
俺は隣に腰を下ろし、静かに尋ねた。
「何か、思い出せそうか?」
「……わからない。でも、心が……少し、痛い」
胸に手を当てたスゥは、まるで痛みの正体がわからないまま苦しむように、目を細めた。
それが記憶の痛みなのか、あるいは喪失の傷なのか。
答えはまだ出ない。
だが、確かに、何かが彼女の中で揺れている。
「ゆっくりでいい。無理に思い出そうとしなくていいからな」
「……うん」
その返事は、かすかに震えていた。
丘の上の風が、葉を揺らし、草を撫でていく。
春の匂いの奥に、ほんのわずか、別れの匂いが混じっているような、そんな気がした。




