スゥと妻達
朝の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
鳥の声が、遠くで聞こえる。
この家の朝は、静かであたたかい。
スゥは布団の中で、そっと指を握ったり開いたりする。
まだ、何もする気になれない。
けれど、今日は少し違っていた。
「……来てる」
足音はとても静かだった。
けれど、風が教えてくれた。――“あの人”だと。
扉の向こうに立っていたのは、やっぱり、あの“エルナ”という人だった。
ドアをノックせず、でも勝手に開けたりはしない。
ノブに触れたまま、少し待って、それから声をかけてくれる。
「おはようございます、スゥさん。入っても、いいですか?」
その声が、いつもよりちょっとだけ迷っているように聞こえた。
スゥは、ふわりと立ち上がった。声は出せなかったけれど、軽くうなずいて扉のほうを見た。
カチャリ、とドアが開く。
風の精霊がまとわりつくような、静かで透明な気配。
やっぱり、この人は……ちょっとだけ、安心できる。
エルナは小さなカゴを持っていた。中には果物と、昨日言っていた“焼きたてのパン”。
それを小さな机の上に並べると、少しだけ微笑んだ。
「今日は、少し暖かくなってきましたね。春が近いのかもしれません」
言葉はそれだけだった。無理に何かを言わせようとしない。
ただ、そっと近くに座って、窓の外を一緒に見てくれる。
「どうして、エルナは……何も聞かないんだろう」
名前も、過去も、どうして話せないのかも。
誰も聞いてこないけれど、それでも“気を遣っている”のが分かる人と、
本当に“気にしないふりをしてくれてる”人がいる。
エルナは、きっと後者だ。
「……」
そっとパンを手に取って、かじってみた。
やわらかくて、甘くて……ちょっとだけ、涙が出そうになる。
「それ、美味しいですよね。焼きたてのパンって、香りが特に好きで……」
エルナがぽつりと呟いた。
「……わたしも、すき」
スゥは、自分でも驚いた。
声が出た。エルナの前で。
昨日までは、何も言えなかったのに。
エルナは、驚いたように一瞬目を見開いて――
それから、とても優しく笑った。
「ありがとうございます。……スゥさんの声、きれいですね」
何も特別なことじゃない。
だけど、スゥは胸の奥が少しだけ熱くなった。
エルナと一緒にいる時間は、風の音に似ていた。
強く吹き抜けたりしない。やさしく、撫でていく。
触れて、流れて、染み込んでいく。
……あの人の前では、胸がざわつく。
でも、エルナの前では、呼吸がすうっと深くなる。
「……こんな時間、悪くない。もしかしたら、好きかもしれない」
そんな風に思った。
そのあとふたりで黙ったままパンを食べた。
でもそれで、十分だった。
最後の一口をかじったとき、スゥはふと思い出した。
「……プリン、また食べたい」
言えなかったけれど、エルナに伝えたくなった。
“あれ、すごく美味しかった”って。
また……あの人にお願いして、持ってきてもらおうかな。
エルナの隣で、こっそり笑って食べるのも――
きっと、悪くない。
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承知しました。それでは、スゥ視点でエルナとの距離を軸にしつつ、“プリン”という小さなきっかけを通して、他の妻たちとも少しずつ打ち解けていく心の変化を丁寧に描写してみます。優しい日常と微かな前進を感じるエピソードに仕上げます。
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プリンが食べたい――
そう思ったのは、昨日の夜だった。
あの、ふるふると揺れる黄金の甘いもの。
口に入れた瞬間、やわらかくて、すっと溶けて、ほんのり甘くて。
気がつけば、最後の一口を名残惜しく見つめていた。
あれを作ったのは、あの“おっとりした人”。
名前は……たしか、「アリア」。
エルナに教えてもらった。
「スゥさんが好きそうだと思って、アリアさんに頼んだんです」って。
――わたしのこと、そんなふうに……?
ふわりと、胸が温かくなった。
翌朝。離れにエルナが来たとき、わたしは言葉を絞り出すようにして、囁いた。
「……あれ、また……たべたい」
エルナは嬉しそうに微笑んで、軽くうなずいた。
「じゃあ、アリアさんにお願いしてきますね。きっと、喜びますよ」
それだけ言って、ふわりと出ていった。
……その背中を、思わず目で追っていた。
昼すぎ。
扉が開いたとき、そこにいたのはエルナだけじゃなかった。
「こんにちは、スゥさん。これ、できたてですよ」
白銀の髪を揺らしたアリアが、両手にプリンの載った小皿を持っていた。
柔らかく微笑んでいる。後ろには、金髪の女性――リディア、だったと思う。
一瞬、体がこわばる。
けれど、エルナが一歩先に出て、言った。
「アリアさん、スゥさんがプリンのこと話してくれたんですよ。すごく嬉しかったです」
アリアはわたしの前にそっと小皿を置いて、にこっと笑った。
「美味しくできたと思います。また感想、聞かせてくれると嬉しいです」
……その声は、なんというか、落ち着いていて、静かだった。
わたしを試すようでも、探るようでもなくて――ただ、自然だった。
プリンにスプーンを入れて、ひとくち食べる。
昨日よりも、少しだけ甘さが増していた。
「……おいしい」
そう言った瞬間、アリアの目がふわっと細くなった。
「よかった……ふふ、うまくいったみたい」
なぜか、ほっとしてる。
わたしが言葉を返しただけで、こんなに嬉しそうにするなんて。
「味見してないんだよな、私も食べてみるか」
リディアが横からスプーンを取り、ぱくっと口に入れた。
「……くっ、悔しいけどうまい。アリア、あんたお菓子職人になれるわよ」
ちょっと乱暴な口調。でも、そこには敵意も、見下しもない。
「……リディアさんは、プリン好き?」
わたしの問いに、彼女は少し驚いて、それからニッと笑った。
「そりゃ甘いもんは嫌いじゃないさ。特にこれはな」
そう言って、肩をすくめた。
……なんだろう。
この空気。
初めて見るのに、どこか、似てる。
昔――どこかで、こういう風に誰かと笑い合っていた気がする。
プリンは、冷たくて甘いけど。
その場の空気は、ほんのり温かかった。
夕方、3人が帰ったあと。
わたしはまだ空になった皿を見ていた。
心が、少しだけ、開いた気がした。
それはエルナが最初の鍵をくれて、プリンが静かに扉を押してくれたから。
「……また、たべたいな」
それはきっと、プリンだけじゃなくて――
また、誰かと一緒に笑って食べたいってことなんだと、うすうす感じていた。
けれどまだ、それは言葉にはしない。
心の中だけで、そっと、繰り返す。
「また……たべたい」
そう思いながら、スゥは空の皿を、そっと胸に抱きしめた。




