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選ばれた心

夜の帳が降り、アルシェリアの空に星がまたたき始めたころ。

ユーリは食後のひととき、妻たちと談笑していた。ふと、あることを思い出して、言葉を選びながら切り出す。


「そういえば……そろそろ、ちゃんと話をしてみないかと思ってる。スゥと」


その名に、場の空気がやや変わる。皆、穏やかに頷いた。


「少しずつは慣れてきてるようだけど……今も、話しかけても反応が薄いのよね」

リディアが顎に手を当てる。


「お会いしたときは……あまりに衰弱していて、表情も読み取れませんでしたものね」

アリアは静かに視線を伏せた。


スゥがこの屋敷に来たのは、ほんの数日前。

領内で倒れていたところを、巡察中のエルナが見つけたのだ。

保護した当初は昏睡状態で、うわごとのように短い言葉を呟くだけだったという。


「いまはだいぶ落ち着いてる。……不思議なくらい、僕には懐いてくれてるんだ」

ユーリは苦笑する。


「やっぱり、ユーリさんだけなんですよね」

エルナが肩をすくめる。


「私たちが声をかけても、反応が薄い。視線さえ……合わせようとしない」

セレスの言葉に、一瞬の沈黙が落ちた。


アリアが微笑みながら言った。


「だからこそ、今日は“あなた”を間に立ててみましょう。スゥさんとお話できる、いい機会かもしれませんわ」


こうして、彼女たちは再びスゥの暮らす離れへと足を運ぶことになった。


 


離れの部屋に、スゥは静かに座っていた。

紫の髪が月明かりに淡く光り、褐色の肌が闇の中でほのかに際立って見える。


ドアが開き、ユーリが顔を覗かせると――スゥはぱっと表情を上げた。


「ユーリ」


短い声が、まるで光のように響く。

その声に、ユーリは自然と頬を緩めた。


「こんばんは。今日は、少しだけ話をしてみようと思って。君を助けてくれた人たちと、ちゃんと」


「……みんな、いる」


スゥの瞳が、ユーリの後ろを見つめる。

そこに立っていたのは、リディア、アリア、エルナ、そしてセレス。


数日前、スゥが最初に見た顔――けれど、それは意識の霞の中の出来事。

覚えていても、その実感は薄く、ただ記憶の底に引っかかる感覚だけが残っていた。


「覚えてる? あの時、君を助けてくれたのは――」


「……知ってる。でも……話せない」


スゥはそう言って、小さく身を縮こまらせる。


「大丈夫。誰も君を責めたりしない。ほら、僕の隣に座って。……皆とも、少しずつでいいから」


おずおずと近づいてくるスゥの手が、自然とユーリの袖を掴む。


他の誰でもなく、ユーリの隣だけが、彼女の安全地帯だった。


リディアがその様子を見て、ふっと肩をすくめる。


「完全に懐かれてるわね。……ちょっと妬けるわ」


「ふふ……可愛らしいですね。でも、あんなふうに……他の人には心を閉ざしてしまうんですね」

アリアが囁くように言う。


エルナは優しく声をかける。


「スゥさん、無理に話そうとしなくていいんです。少しずつで大丈夫ですから」


だがスゥは、エルナの方を見ることなく、ユーリの袖にぎゅっと指を絡ませた。


「……ユーリだけ。ほかは……わかんない」


その声に、ユーリの妻たちは誰も言葉を挟まなかった。

そこに嫉妬も、不快も、なかった。


あったのは、ただ――この子が背負ってきた何かを、少しだけ垣間見たような感覚。


セレスが、ふっと優しく笑った。


「……それだけ、ユーリが特別ってことよ。私たちにも、最初は時間がかかったわ」


「そうですね。少しずつ、信じてもらえれば」

アリアが微笑む。


リディアは肩をすくめつつ、ぽつりと呟く。


「いいわよ。あんな顔、私たちの前でもしてくれるようになったら――それはそれで、楽しみだし」


ユーリが振り返ると、彼女たちは皆、穏やかに微笑んでいた。


スゥはまだ、何も言わなかった。


けれどその腕の力が、ほんの少しだけ緩んだ。

まるで、ここにいる人たちの“やさしさ”が、ほんのわずかにでも伝わったかのように。


 


その夜。

離れの灯が消えたあと、ユーリは長いこと月を見上げていた。


スゥがなぜ自分にだけ懐くのか――その答えは、まだ遠い。

だが、確かに彼女の心は、ここに存在していた。


少なくとも今夜、家族に迎え入れるための一歩は、たしかに踏み出されたのだった。


ーーーーーーーーーーーーー


【スゥの独白】


「わたしは、ここにいていいの?」


……ここは、あたたかい。

けど――それだけで安心していいの?


目を開けると、天井がある。柔らかい布団に包まれて、風の音がやさしく響く部屋。

ここが“安全”だと、身体が覚えているのが不思議だった。


でも――


「どうして、あの人には……」


言葉が出た。声が出た。

「ユーリ」という名前を呼ぶとき、胸がすうっとして、喉が震えなかった。

あの人の前では、怖くない。どうしてだろう。初めて会ったのに。

どうして、こんなに安心するの?


他の人たちも、きっと悪い人じゃない。

金色の髪の人、銀色の人、白い服の人、みんな――やさしい目をしてた。

なのに、身体が動かなくなる。声も、出なくなる。


「こわいわけじゃない。……じゃあ、なに?」


――きっと、わたしが壊れてるんだ。

怖くないのに、顔を見られない。

話したいのに、言葉がのどにつかえる。


でも――


「エルナ、っていう人。……わたしを、拾ってくれた人」


最初に聞こえた声だった。

魔力のざわめきと、風の匂いがして。優しくて、透き通っていて。

あれは――あの時のことだ。


眠ってるあいだに、手を握ってくれてた。

お水を飲ませてくれた。熱いのに、額を撫でてくれた。


……お姉ちゃん、みたい。


そう思ったら、少しだけ心があったかくなった。


まだ話せないけど……エルナのこと、ちょっとだけ、気になってる。

あの人の髪の色、好き。声も――森の音みたいに静かでやさしい。


「いつか、ありがとうって言えたら……言いたいな」


――でも、やっぱり一番安心できるのは、ユーリだった。


変な人だと思う。笑い方が優しいのに、どこか寂しそうで。

誰よりも強そうなのに、なんだか無防備で。


わたし、あの人のこと、知ってたっけ?

……知らないはずなのに、どうして。

見ているだけで、胸が痛くなるの。


ユーリの前では、しゃべれる。触れられる。

そうじゃないときのわたしじゃないみたい。


「でも、わたし……忘れてることが、たくさんあるから」


何か、大切なこと。

思い出しちゃいけないようなこと。

でも、それを思い出したら、きっとこの人たちの前にいられなくなる。


それでも――


「昨日、食べた……あの甘いやつ」


口の中に広がった、とろけるような味。冷たくて、ぷるぷるで、あまくて――

スプーンを運ぶたびに、目を閉じたくなった。


「プリン、って言ったっけ。……また食べたいな」


誰にも言わないけど、また……あれ、食べられるかな。

あの人の前なら、ちょっとくらい、わがまま言っても……いいのかな。


 


そう思って、スゥはひとり、月明かりの差す部屋で毛布をぎゅっと抱きしめた。

声にはしないけれど、小さな願いが心の奥でふわりと膨らんでいく。


「プリン……ユーリに、お願いしてみようかな」

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