③
夜の帳が降り、アルシェリアの本邸はすでに静まり返っていた。
宴の余韻が薄れ、各々が自室でくつろぐ時間。ユーリは食後の温茶を一口飲み干し、椅子から立ち上がる。
「……離れ、見てくるよ。例の子が気になっててさ」
アリアが少し心配そうに眉を寄せた。
「兄様、お一人で?」
「大丈夫だよ。驚かさないように声だけかけるつもりだから。無理に近づく気はない」
頷きを交わし、ユーリは静かに外套を羽織って屋敷を出た。夜風が頬を撫でる。
月は高く、星々は凪いだ空にくっきりと瞬いていた。
裏庭を抜けた先、木々に囲まれた一角に、ぽつりと明かりの灯る小屋――離れが見えた。
灯りはわずか。誰かが起きているのか、微かに室内から漏れている光。
扉の前に立ち、ノックするのも憚られるほどの静けさだったが、ユーリは優しく声をかけた。
「こんばんは。ユーリだ。……少しだけ、顔を見に来たよ」
沈黙――いや、気配はあった。
扉の向こうに、誰かが耳を澄ましているのを感じた。
「入っても……?」
ゆっくりと扉が開いた。
きぃ、とわずかな音を立てて開いた扉の奥にいたのは、小柄な少女だった。
肩までかかる紫の髪。褐色の肌。瞳は金。額の左右には、黒曜石のように艶めく小さな角。
そして、彼女は言葉を発さず、ただじっと、ユーリを見つめていた。
「君が……スゥ、だね?」
少女は一瞬だけ瞬きし、かすかに頷いた。
その瞳は、恐れではなく、どこか懐かしむような色を帯びていた。
「眠ってたのに、起こしてしまったかな。ごめん」
「……起きてた。月が……明るい、から」
ぽつりぽつりとこぼれる声は、意外にも拒絶を含んでいなかった。
「そっか。君のこと、皆から聞いていてね。挨拶だけでもしておきたかったんだ」
彼女は扉の横にどかりと腰を下ろし、手にしていた小さな布人形をぎゅっと抱きしめる。
「……あなたの声、変……聞くと、心があったかくなる」
「……ありがとう。そう言ってもらえるのは、ちょっと照れるな」
その言葉に、彼女の睫毛がわずかに震えた。
笑ったわけではない。でも、心にさざ波が立ったような反応。
ユーリはそのまま、地面に腰を下ろした。彼女の隣――手が触れぬ距離に。
「君のこと、何も知らない。でも、知りたい。……無理に話さなくていい。ただ、そばにいるくらいなら」
「……いい。ここ、落ち着く。あなたが来ても……怖くない」
夜風がそっと吹き、草木がざわめいた。月の光が彼女の横顔を照らし、その金色の瞳を静かに染める。
「……なんでだろう」
ぽつ、とスゥが呟いた。
「あなたといると、寂しくない。……でも、思い出せない。何も」
「……記憶がないって、聞いたよ」
「……うん。でも、あなたは……知ってる気がする。ずっと前に、会った気がする」
その言葉に、ユーリの胸がふと痛んだ。
紫の髪も、褐色の肌も違うのに――彼女の声や、表情の端々が、
なぜか**“妹”**である菜々美の面影を重ねさせた。
彼女は、生まれ変わりでも何でもない。ただ、どこか“似ている”だけ。
だがそれが、たまらなく胸を締めつける。
「……よかったら、明日も来ていい?」
「……来て」
スゥはそっと頷いた。
「名前、教えて。……ちゃんと、聞きたい。あなたの」
「……ユーリ・アルシェリア。君が暮らしてるこの家の主だよ」
スゥの瞳がかすかに開かれ、彼の名を、口の中で転がすように繰り返す。
「ユーリ……ユーリ……」
それは、まるで――昔から呼んでいたような響きだった。
───
承知しました。それでは、ユーリがスゥと再び会い、さらに距離を縮める第3話を執筆します。
本話では、少しずつ明らかになるスゥの性格と心情、ユーリとの会話を通して芽生える信頼を中心に描き、しっとりとした空気の中にわずかにぬくもりが差し込むような構成にします。
---------------
翌日、夕暮れが近づくころ。
屋敷の廊下に差し込む陽光は橙に染まり、庭の木々の影が長く伸びていた。
執務を終えたユーリは、手に一つの包みを提げて離れへと向かう。
昨夜のことが胸に残っていた。
不思議な既視感――いや、もっと深く、魂のどこかが共鳴するような感覚。
「……スゥ」
その名を口にするだけで、心のどこかが静かになるのが不思議だった。
離れの前に着いた時には、すでに扉はわずかに開いていた。
まるで、待っていたかのように。
「来たよ」
声をかけると、ゆっくりと中から彼女が顔を覗かせた。
昨日と同じ紫の髪、褐色の肌、静かな瞳。だが、どこか雰囲気が違った。
「……来た」
スゥは手に小さな木の櫛を持っていた。髪を梳こうとしていたのか、途中で止まったまま。
くしゃくしゃの髪がどこか幼く見えた。
「よかったら、梳いてあげようか」
スゥは迷うように瞳を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「……痛く、しない?」
「もちろん」
中に入ると、離れの中はとても質素だった。
床には薄手の毛布。机の上には読みかけの本と、昨夜の布人形。窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
彼女は床にちょこんと座り、背を向ける。
ユーリは彼女の後ろに座り、優しく櫛を通した。
「髪、綺麗だね。少し波がかかってる。……昔、似たような髪を梳いたことがある」
スゥは声を出さなかった。けれど、どこかうれしそうに小さく背中を揺らした。
「……誰?」
「妹だよ。遠いところにいるんだ。だからきっともう会えないけど、…よくこうやって髪を整えてた」
「……妹……」
「君は違うけど、でも……なんだか、似てる。少しだけ」
「……私も、そう思う。あなたの声、仕草、温度……全部、なつかしい」
ユーリの手が止まる。
それは記憶をなくしている彼女が自然に抱くには、あまりに重い言葉だった。
「記憶がなくても、そんなふうに思えるのは……きっと、本当の感情なんだろうね」
「……あなたに触れると、こわくない。心が、ふわってなる。……変かな」
「変じゃないよ。嬉しいよ、スゥ」
梳き終わった髪は、光を受けて艶やかに揺れた。
スゥはそっと振り返り、まっすぐユーリを見つめた。
「……名前、呼んでいい?」
「もちろん。好きに呼んでくれていい」
スゥの唇が微かに開いた。
「ユーリ……」
その声は昨夜よりも確かで、温もりを帯びていた。
名前を口にしたあと、彼女はふと小さく微笑んだ。
初めて見る、彼女の笑みだった。
「今日は、お土産を持ってきたんだ。屋敷で焼いたタルト。甘いの、好きかな?」
スゥは小さく瞬きをして、わずかに首を傾けた。
「……甘いの、たぶん……好き。でも、食べた記憶……ない」
「なら、初めてがこの味ってのも悪くないかも」
包みを開けると、ほんのりと焼きたての香りが広がった。
小皿に切り分け、フォークを渡す。
スゥは不器用にそれを持ち、一口、口に運んだ。
「……」
沈黙。だが、数秒後、彼女の表情がわずかに緩む。
「……甘い。口の中が、ふわってする……」
「よかった」
「……あなたと、食べるから……おいしいのかも」
ユーリの胸がまた、じんと熱くなった。
この少女の心には、まだぽっかりと空いた何かがある。でも今、その欠片が少しだけ埋まったような気がした。
日が傾き、外はすっかり夜になっていた。
それでも、ふたりはそのまま並んで座り、タルトを分け合いながら、言葉少なに時を過ごした。
そして別れ際、スゥは初めて自分から言った。
「……また、来て。……待ってる」
その瞳に宿る微かな光は、寂しさでも絶望でもなかった。
それは――希望だった。




