間章 欠けた魂
夢を見るようになったのは、いつからだっただろう。
気づけば毎晩のように、知らない世界が目の前に広がっていた。
空を飛ぶ船、街を走る魔導馬車。石造りの建物と、鎧をまとった兵士たち。
現実とは思えない景色の中で、必ずひとりの青年の姿があった。
その人は、菜々美の知る兄とはまるで違う姿をしていた。
髪の色も、背格好も、名前すら違う。
それでも――菜々美にはわかった。夢の中の彼が、兄であると。
どうしてだか、分からない。けれど、直感だけははっきりしていた。
目の前にいるその人こそ、菜々美が失った、たったひとりの大切な人。
――お兄ちゃんは、生きている。
夢の中で彼は、剣を振るい、誰かを守り、仲間たちと共に笑っていた。
その姿を、菜々美は何度も、何年も見続けた。
最初は偶然の産物だと思った。けれど、あまりにも鮮明で、現実味を帯びていて、何よりも“彼”がそこにいた。
だからこそ、菜々美は信じるようになった。
兄はあの世界で生きている。自分は夢を通して、それを見ている。
何度もそうして夢を見るうちに、菜々美自身も変わっていった。
現実の学校で笑えるようになった。
夜が来るのが、少し楽しみになった。
夢の中でしか会えなくてもいい。
声が届かなくても、触れられなくても、彼が“そこにいる”というだけで、生きる意味を感じられた。
――だからこそ、あの日の出来事は、衝撃だった。
それはある夜のことだった。
いつものように夢の中に入り、異世界の風景が広がる――そのはずだった。
けれど、その夜は違った。
景色はゆらぎ、音が遠のき、柔らかな光だけが視界を満たした。
そして、声が聞こえた。
『まさか……こんなことがあるなんて』
優しい声だった。穏やかで、どこか神聖な響き。
『あなたの魂の一部が、あの世界に行ってしまっていたの』
菜々美は瞬きをした。自分が……異世界に?
『正確に言うと、あなたのお兄さん――あの人が魂として異世界に旅立つ際に、あなたの魂の“かけら”が彼に引き寄せられたの』
『融合したわけではないわ。ただ一部が、兄と共に異世界へ運ばれてしまった。それが、あなたの夢の正体』
『あなたの魂の一部が、あの世界にあるから――あなたは“夢”という形で、ずっと兄を見続けていたの』
そうだったのか。あの夢は、偶然なんかじゃなかった。
ずっと不思議に思っていたことの理由が、ようやく繋がった。
けれど、女神と名乗る声は、どこか苦しげだった。
『これは、本来なら起きるはずのない出来事。魂の回収の際に、私がきちんと管理できていなかった……完全に私のミス』
『その結果、あなたの魂は“不完全な状態”でこの世界に残されてしまった』
『かけらを失った魂は、均衡を保てない。少しずつ、ゆっくりと、命を削るように壊れていっているの』
菜々美は震えた。
『このままでは、あと数年であなたの魂は崩れ始め、身体の限界も迎えるでしょう』
現実を失う。命も消える。
信じがたい話だった。けれど、夢を通して見てきたすべてを思い返せば、それが“真実”であることは分かってしまう。
だから、女神は言った。
『あなたには、選ばなくてはならない選択があるの』
『ひとつは、あなた自身があちらの世界へ向かい、そこにある“魂のかけら”と再び一つになって生きること』
『もうひとつは、かけらを回収し、この世界のあなたに戻すこと。魂は元に戻るけれど、二度とあの夢を見ることはなくなる。兄と交わることもなくなる』
菜々美の胸に、鋭い痛みが走った。
“夢を見なくなる”――それは、兄ともう会えないということ。
姿は違っても、あの優しさに触れられる唯一の場所が、永遠に閉ざされてしまうということ。
けれど、異世界に行けば、この世界とは決別することになる。
家族も、友達も、日常も、すべてを置き去りにすることになる。
どちらも、簡単には選べない。
けれど。
「……お兄ちゃんに、会いたい」
その気持ちだけは、昔からずっと、何も変わらなかった。
「もう、夢の中で見てるだけじゃ、足りないの。……一度でいいから、ちゃんと……伝えたい」
涙が頬を伝いながらも、菜々美はまっすぐ前を見据えた。
“好き”という想いを。
“ありがとう”という感謝を。
ただの夢じゃない、ただの記憶じゃない、その全てを込めて――
「……私が、選ぶのは――」




