⑯
翌朝、村は朝霧に包まれていた。川辺の宿の窓からは、薄靄の中を行き交う村人たちの影がちらほらと見える。
「朝食は簡単なものですが、お口に合うといいですねえ」
宿の女将が湯気を立てるスープとパンを並べながら笑顔を浮かべる。その横では、昨夜の老主人が座って煙草をくゆらせていた。
「いい朝だな。少し、村を見て回ってもいい?」
ユーリが振り返って尋ねると、セレスティアは軽く頷いた。
「少しなら問題ありません。時間には余裕がありますから」
二人は外套を羽織り、朝の村へと出た。
村の中央にある小さな広場では、野菜や果物が並ぶ簡易の市が開かれていた。子どもたちが走り回り、年寄りたちは道端で世間話に花を咲かせている。
そんな中、少し離れた井戸のそばで、村の青年たちが集まって何やら話し込んでいた。
「……最近、どうも変だって親父が言ってた。城下の方じゃ、鉄の値が跳ね上がってるらしいぜ」
「武器や鎧がバカみたいに売れてるって話だ。貴族様たちが、こぞって買い漁ってるとか」
「戦争でも始まるのかよ……」
ユーリは足を止め、何気ないふりでその話に耳を傾けた。セレスティアも同じように、視線だけをそちらに向けている。
井戸の傍の若者たちは、あくまで世間話のつもりのようだったが、その口調には不安が滲んでいた。
やがて会話は違う話題へと移ったが、ユーリは立ち止まったまま、しばらく無言だった。
「……気になりますか?」
セレスティアが小さく問いかける。
「うん。王都から急に召集された理由とは関係ないと思いたいけど……貴族が武器を買い漁るなんて、穏やかじゃないよ」
彼の声には、僅かな緊張があった。
「正式な軍の動きであれば、私の耳にも何らかの情報が届いているはず。ですが、そういった知らせはありません」
「となると……」
「私的な動き、もしくは、それに近いものかもしれません」
セレスティアはそう言いながら、村の空を見上げた。どこか物思いにふけるような表情だった。
「……でもまあ、今ここで考えても仕方ないか。王都に行けば、何か見えてくるかもしれない」
ユーリは気を取り直したようにそう言うと、セレスティアの方を見た。
「それより、もう少しだけ歩こう。せっかくだし、この村の雰囲気、気に入ったから」
その言葉に、セレスティアの口元がわずかに緩んだ。
「了解しました。ユーリ殿が迷子にならないように、私が見張っていましょう」
「……それ、やっぱり俺が方向音痴ってこと?」
「言ってませんよ。ただの、予防です」
二人は軽く笑い合いながら、村の小道をゆっくりと歩き出した。どこかに不穏な影を感じつつも、まだ朝の光は穏やかで、村の空気には安らぎがあった。
---------------
村を発つ朝は、前日よりも幾分か晴れやかだった。
荷を整え、宿の老夫婦に頭を下げて村を後にする。見送る人影は少ないが、名もなき村人たちの素朴な笑顔が、旅の疲れをほんの少し癒やしてくれるようだった。
村の背後に広がる林道を進みながら、ユーリはふと隣を歩くセレスティアの表情を盗み見る。
「……昨日より、少し表情が柔らかい気がするな」
そう思った矢先、彼女がこちらに視線を寄越した。
「何か?」
「いや、何でもない。ただ、今日の天気は旅日和だなって思っただけ」
セレスティアは、すこしだけ目を細めた。わずかに呆れの色を含んだ微笑。たぶん、ほんの少し、仲良くなってきた証拠。
二人はそのまま並んで歩き続けた。
しばらく進んだ森の中、異様な気配が漂ったのは、昼前のことだった。
茂みの奥から、地を這うような低い唸り声。直後、黒い毛並みをした狼に似た魔獣が飛び出してきた。背丈は人間ほどもあり、目は血に濡れたように赤い。
「来ます!」
セレスティアが即座に抜刀し、体勢を取る。
「俺も援護する!」
ユーリも素早く詠唱の準備を始めた。が、先んじて前に出たセレスティアが、一体の魔獣と剣を交える。
素早い。確かな技量。だが、数の多さが誤算だった。
一匹の動きを封じた次の瞬間、茂みの陰から飛び出した別の魔獣の爪が、彼女の脇腹をかすめた。
「……っ!」
わずかに呻く声と、服を濡らす紅。セレスティアはすぐさま体勢を立て直して魔獣を薙ぎ払ったが、その動きは明らかに鈍った。
「セレスティア、大丈夫か!」
「問題ありません……浅い傷です」
そう言いつつも、その額には汗。痛みに耐えているのは明らかだった。
ユーリは迷わず手を伸ばした。杖に意識を集中し、紋章が淡く光を帯びる。
「創造の加護よ、癒しの薬を形にせよ」
淡い光と共に、彼の手のひらの上に青緑の瓶が浮かび上がった。傷薬——否、即効性の高い回復ポーション。
「これ、使え。……多少苦いけど、効き目は保証する」
セレスティアは目を見開いた。
「今の……創造の加護、ですか?」
「ああ。俺の加護は“創造”だよ。……言ってなかったっけ?」
彼の言葉に、セレスティアは無言のまま瓶を受け取る。躊躇するように一瞬見つめた後、ぐいと一気に飲み干した。
数秒後、彼女の表情から痛みが和らいでいくのが見て取れた。
「驚きました。創造の加護とは、ここまで精緻な薬を……。正直、加護と聞いて少し軽く見ていたかもしれません」
「よくあることさ。俺も最初は何ができるのか分からなくて困ったし」
ユーリが軽く笑うと、セレスティアは僅かに視線を逸らした。
「……感謝します、ユーリ殿。助かりました」
その声音には、今までにない素直な響きがあった。信頼以上、けれどまだ、それ以上と呼ぶには微妙な距離感。その変化を、ユーリは何となく感じ取った。
「お互い様だよ。俺一人だったら、とっくにこの森で餌になってたかもしれない」
彼の冗談に、セレスティアは小さく笑った。
「それは……確かに否定しきれませんね」
少しだけ砕けたその声に、ユーリの胸の奥がわずかに温かくなる。
魔獣の死骸を脇に、二人は再び歩き出す。旅は続く。けれど、たった一つのポーションが、二人の間の何かを静かに変えていた。
---------------
陽が落ち始め、あたりが金色の影に染まる頃、ユーリは開けた林の中にちょうどよい野営地を見つけた。水場に近く、木々の枝も風除けに使える。獣道からもやや外れている。
「ここで一泊しよう。セレスティア、大丈夫か?」
「ええ。ポーションのおかげで、傷の痛みはもう感じません」
そう答える声に嘘はなかった。動きにも無理は見られない。ただ、どこか心なしか彼女のまなざしが柔らかい。以前なら、無言で焚き火の準備を始めていたところだろう。
「じゃあ、俺は薪を集めてくる。セレスティアは周囲の警戒を頼める?」
「分かりました。お互い、無理はしないように」
ユーリが軽く頷き、歩き出すと、その背に小さく返る声が聞こえた。
「……ありがとう、改めて」
振り返っても、セレスティアはもう背を向けていた。けれどその言葉は、まっすぐ心に届いていた。
***
夜。
焚き火の炎が、赤く揺れていた。枝葉のぱちぱちという音に混じって、遠くの虫の声が時折風に乗って届く。
二人は焚き火を挟んで腰を下ろし、簡素な干し肉とパンで食事を済ませていた。言葉少なではあったが、沈黙は重くなかった。
夜気は冷たくなってきたが、火のぬくもりと、それ以上に隣に誰かがいるという安心感が、静かに心をあたためてくれる。
やがて、ユーリがふと、炎越しに目を上げた。
「……セレスティア、今日、少しだけ雰囲気が変わったよな」
「え?」
「いや、なんというか……少し、前より俺に心を許してくれてるっていうか。表情がやわらかくなったっていうか」
セレスティアは少し驚いたように目を見開き、それから視線を落とした。焚き火の光が彼女の頬を橙に照らしている。
「……そう見えるでしょうか?」
「ああ。悪い意味じゃないよ。むしろ、仲良くなれてきたのかなって、少し嬉しくて」
ユーリが照れくさそうに笑うと、セレスティアも目を細めて、それに応えた。
「そう、ですね。たぶん……今日のことが、きっかけになったのかもしれません」
「創造の加護、のこと?」
「ええ。加護は誰にでもあるものですが、あなたのそれは……ただの力じゃなく、他人のために使おうとしているのが分かりました」
そこまで言って、彼女は焚き火の炎をじっと見つめる。
「私は……王都の騎士という立場もあって、人との距離を測るのが癖になっていて。でも、あなたと旅をして、話をして、今日のことがあって……少しずつ、私の中で何かが変わってきたのかもしれません」
「……うん」
ユーリは、うなずくだけだった。無理に言葉を返さず、ただ彼女の言葉を受け止める。その沈黙が、かえって心地よい。
風が一陣、木の葉を鳴らして通り過ぎた。焚き火の火がぱちりと跳ねる。
「ユーリ殿」
「ん?」
「……あまり調子に乗らないでくださいね。私が気を許してきたからって」
セレスティアがわずかに笑いながら、からかうような口調で言った。
「はいはい。気をつけます」
そんな風に答えながらも、ユーリは心の中で、少しだけ胸を撫で下ろしていた。彼女の笑顔を引き出せたことが、素直に嬉しかったのだ。
***
その夜、焚き火が静かに燃える音の中、二人は交代で見張りを立て、眠りについた。
信頼という土台の上に、少しずつ、目に見えない何かが築かれ始めているのを、ユーリはまだはっきりとは言葉にできなかったが、確かに感じていた。




