⑮
出発の朝。屋敷の中庭には柔らかな光が降り注ぎ、曇り空の向こうから、時折陽が射し込んでいた。
ユーリは旅装を整え、執務机の脇に置いた鞄の留め具を最後に一つ確かめる。
「……よし。こんなもんか」
呟いたところで、部屋の扉が控えめにノックされた。
「ユーリ殿。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
扉が開き、水色の髪が揺れる。セレスティアだった。いつもの騎士の装いに身を包み、腰には剣を携え、肩にかけたマントはきちんと留め具が整っている。見慣れたその姿に、ユーリは自然と微笑んだ。
「準備は整っています。馬車は門前に」
「さすがだな。俺も今ちょうど、終わったところだ」
彼女の視線が鞄に向けられる。少しだけ目を丸くして、
「……お荷物、ずいぶん軽いのですね」
「まあ、旅慣れしてるってわけじゃないけど。余計な物を詰めると動きにくいしな。現地でなんとかなるさ」
「それは……貴族らしくない発想です」
「よく言われるよ」
くすっと笑うと、セレスティアも少しだけ唇を緩めた。
だが、それ以上多くは語らず、すぐに顔を引き締める。
「では、参りましょうか」
「うん。よろしく頼む」
二人で屋敷を出ると、門前には黒塗りの馬車が待っていた。御者が帽子をとって一礼し、ドアを開ける。ユーリが先に乗り込み、その後をセレスティアが静かに続く。
馬車が動き出すと、アルシェの街並みが少しずつ遠ざかっていく。道沿いには朝の市に向かう人々の姿、パン屋の開店準備、子供たちの駆ける声。何気ない日常が、窓の向こうを流れていった。
「……少し、静かですね」
セレスティアが、ふと口を開いた。
「街の雰囲気か?」
「ええ。普段よりも、人々の声が控えめな気がします」
「たしかに。何かあったのかな」
曇天のせいか、空気がやや湿っている気がした。
しばらく沈黙が続いたあと、ユーリがぽつりと口を開く。
「ところで、セレスティア」
「はい?」
「緊急の招集って、やっぱり、何の件か知らされてないよな?」
「はい。私のもとにも、詳しい内容までは。……ただ、“急ぎ王都へ向かえ”とのみ」
「まったく、急ぎのときほど事情を明かさないのは、悪手だと思うんだけどな…
」
「……それについては同感です」
二人して苦笑する。
窓の外では、石造りの町の道が次第に土の街道へと変わり、馬車の揺れも大きくなる。
「それでも、こうしてセレスティアが一緒なのは、ちょっと安心できる」
そう言うと、セレスティアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……そうですか?」
「ああ。正直、王都の特に王宮の人間って堅物が多くて、話しかけにくいイメージがあったんだけど」
「……私も、そう見られているのかと」
「最初はちょっとだけな。けど、今は……ほら、こうして話せてるし」
セレスティアは言葉にはしなかったが、目を伏せ、わずかに頬を染めたように見えた。
「ありがとうございます、ユーリ殿。……私も、ご一緒できて光栄です」
「堅いなあ、やっぱり」
「職務ですので」
だがその言葉の響きは、どこか柔らかかった。
馬車は小川にかかる橋を越え、ゆるやかな丘を登っていく。
その向こうには、広がる平原と、かすかに見える山影。王都への道のりは、まだ始まったばかりだった。
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旅の初日は順調だった。
雲は流れ、昼を過ぎる頃には晴れ間が広がっていた。
セレスティアの指示のもと、馬車は予定通りの宿場町に到着したが、ユーリはふと、町中に泊まるのではなく、あえてその手前で野営を希望した。理由は単純。自然の空気の方が落ち着くからだ。
焚き火の火が、静かな夜にぱちぱちと音を立てている。
ユーリは火のそばに腰を下ろし、持参した水筒から湯を注いでいた。セレスティアは少し離れたところで剣の手入れを終え、ユーリの隣に戻ってくる。
「こんなところで休むの、平気か?」
「はい。野営は慣れています。むしろ、町の喧騒より好ましいくらいです」
「よかった。俺のわがままじゃなかったな」
「……少しは、わがままかと思いましたが」
セレスティアは言いながら、微かに笑った。
「冗談でも刺さるなあ、それ」
「それは……申し訳ありません」
「いや、謝られると余計に刺さるって」
思わず苦笑したユーリに、セレスティアも口元を和らげた。
焚き火の炎が彼女の横顔を照らし、どこか静かな、美しい印象を与える。
「こうして話してると……やっぱり、少しずつだけど、旅って不思議だな」
「不思議、ですか?」
「ああ。時間も場所も、日々の暮らしとは違うだろ? だからか、いつもより言葉を交わす時間が多い気がして」
「それは……確かに、そうかもしれません」
セレスティアは、やや思案するように火を見つめた。
「私も……王都を出てから、こんなふうに、誰かと焚き火を囲んだのは久しぶりです」
「そうなのか?」
「はい。任務の旅が多く、護衛対象は静かに眠っていたり……あるいは、話しかけられる空気ではなかったり」
「……騎士って、そういうものか」
「そうですね。話すことは少なくても、警戒は怠らない。それが基本です。ですが……」
そこで、彼女は一拍置いて、ユーリの方を見た。
「ユーリ殿となら、少し違うように感じます」
「俺が、話しかけやすいだけかもしれない」
「……かもしれません」
セレスティアの声に、やや笑みが含まれていた。
そのまま、二人はしばし焚き火の音に耳を傾けた。夜の空気は少し冷たく、草の匂いが混じる。
ふと、ユーリが湯を入れたカップをセレスティアに差し出した。
「……ハーブティー。温まるぞ」
「……ありがとうございます」
受け取ったカップを両手で包み、セレスティアは小さく口をつけた。そのまま、しばらく黙って、目を閉じる。
「……落ち着きますね」
「なにせ、我が領でとれた薬草だからな。……というか、ほんとに飲むとは思わなかった」
「なぜですか?」
「王都の人って、そういうの、あんまり信用しなさそうなイメージがあって」
「それは偏見です」
「やっぱり怒った?」
「少しだけ」
笑い合いながら、二人の間の空気がやわらぐ。
やがて夜も更け、テントを張った寝床へ向かう時間が近づいた。
ユーリが荷物をまとめていると、セレスティアがすっと立ち上がる。
「先に見回ってきます。周囲に魔物や盗賊の気配がないか、確認を」
「任せるよ。俺は焚き火の後始末しておく」
(……最近、セレスティアの反応がやわらかくなってきた気がするな)
最初の頃は、王都から来た任務の騎士としての立場を強く意識していたのか、どこか距離のある話しぶりだった。警戒とは違うが、線を引かれている感じがして、少しだけ緊張していたのを覚えている。
けれど、今は違う。
言葉の端々に、表情の細部に、彼女の「気持ち」が滲むようになってきた。
もちろん、彼女は騎士であり、誠実で真面目な性格に変わりはない。だが、その中に——今は確かに、わずかにでも「信頼」や「親しみ」といった温度があるように思える。
(……仲良くなってきたって、思っていいんだよな)
そう思えたことに、自然と肩の力が抜けた。
それもまた、どこか心地よかった。
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村と呼ぶにはあまりに静かな集落に、二人はその日の午後、立ち寄ることになった。
馬を引きながら、石垣の間を抜けると、低い家々が並ぶ素朴な風景が広がっている。
「……ずいぶん、静かな村ですね」
セレスティアが周囲を見回しながら呟く。
「うん。人の気配も少ないし、何かあったのかって疑いたくなるくらいだ」
ユーリも慎重にあたりを見回しながら言ったが、特に不穏な雰囲気は感じられなかった。
やがて、子どもたちの声が風に乗って聞こえ、陽の当たる家の前には年老いた女性が腰を下ろしているのが見えた。
「あ、旅の方かね。宿なら、向こうの川沿いに一軒あるよ」
「ありがとうございます。助かります」
礼を述べると、女性はにこりと笑った。
それだけで、村の空気がほんの少し柔らかく感じられた気がした。
簡素な宿に着き、荷をほどいた後、二人は並んで村の外れを散歩していた。日が傾きかけた頃、畑の縁に腰を下ろし、柔らかな風を感じながら、久々にゆったりとした時間が流れる。
「こういう場所に来ると、何だか……落ち着きますね」
セレスティアがふと、そう呟いた。
「意外だな。てっきり都会の空気のほうが落ち着くのかと思ってたよ」
「私が……都会的に見えますか?」
「少なくとも、田舎暮らしを楽しんでる騎士には見えないな」
冗談混じりにそう言うと、セレスティアは小さく笑った。
「……あながち間違ってませんけど。でも、こうして風を感じたり、空を見上げたりするのは嫌いじゃありません」
「そっか。俺もこういうの、嫌いじゃない」
会話は短く途切れたが、沈黙は不快ではなかった。
遠くで犬の鳴き声が聞こえ、どこかの家から薪をくべる音がした。
「ユーリ殿は……旅に慣れていらっしゃるんですね。いつも落ち着いていて、周囲の様子もよく見ていらして」
「いや、慣れてるってほどでもないさ。ただ、誰かと一緒の旅は慣れてないかも。特に、女性とふたりきりなんて」
その言葉に、セレスティアがわずかに眉を動かしたが、それ以上は何も言わなかった。
(あれ、ちょっと言い過ぎたか?)
内心で軽く反省したが、彼女の顔は柔らかく、険しさはなかった。
「……そうですね。私も、2人だけで長く一緒に旅するのは初めてかもしれません」
「そっか」
「けど……悪くないです」
その一言は、まるで風に溶けるように小さかった。けれど、確かにユーリの心に届いた。
(……やっぱり、少しずつでも、距離は近づいてる)
そんな手応えを感じながら、ユーリはその場に腰を下ろし、夕暮れの空を見上げた。
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宿屋は、まさに村の規模に見合った小ささだった。川沿いにぽつんと立つ平屋の建物。外から見たときから予感はあったが、中に入ってみるとそれは確信に変わる。
「申し訳ないね、今日は部屋が一つしか空いてなくて。よかったら、そちらをお二人で……」
宿の老主人が申し訳なさそうに頭を下げた。
「……一部屋、ですか」
セレスティアが表情をほんの僅かに引き締めて問い返す。
「大丈夫ですよ、気にしないでください」
ユーリは先に返事をしてから、ちらりとセレスティアを伺った。彼女は少しだけ考えるように視線を落としていたが、やがて顔を上げた。
「……わかりました。仕方ありませんね」
淡々とした口調だったが、その目元はどこか穏やかだった。
部屋は本当に質素なもので、木の床に並べられた二組の布団だけが夜の準備を告げていた。窓の外からは、川のせせらぎが静かに聞こえる。
「……あんまり、こういうの慣れてないけど、俺は先に休ませてもらうよ」
ユーリは軽く笑って布団に腰を下ろした。
セレスティアは、まだ少し緊張が残る様子だったが、手早く外套を脱ぎ、鞄を整えると、隣の布団へ静かに腰を下ろした。彼女が髪をほどくと、室内にほのかに草のような香りが漂った。
しばらく、沈黙が流れた。だが、それは決して気まずいものではなかった。
「……少しずつ、慣れてきました」
ふいにセレスティアがぽつりと呟いた。
「え?」
「こうして、誰かと同じ時間を過ごすことに。最初は警戒してばかりで……あなたのことも、どう接していいのか分からなかった。でも今は……自然に話せる気がします」
言葉の端に、ほんのわずかに照れのような感情が滲んでいた。
「それは……うれしいな。俺も、最初はちょっと怖かったよ。厳しそうだし、近寄りがたいっていうか」
「……怖かった?」
「うん。剣の腕もあるし、雰囲気がキリッとしてて。でも、話してみると意外と優しいところもあるし、真面目で……ちょっと不器用なだけなんだなって」
「……それは、褒めてるんですか?」
「もちろん。俺、そういう人のほうが信頼できると思ってる」
ふっと、セレスティアの口元が緩む。
「……ありがとうございます。ユーリ殿」
その声には、これまでよりも明らかに柔らかな色が混じっていた。
夜は更けていく。窓の外では虫の声が風に溶けていた。
「おやすみ、セレスティア」
「ええ。おやすみなさい、ユーリ殿」
二人の声が重なり、部屋には静かな夜の帳が降りた。




