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薄く差し込む陽光が、石造りの天井に柔らかく広がっていた。
鳥のさえずりとともに、城の朝が訪れる。
俺――ユーリ・アルシェリアは、静かに目を覚ました。まだ薄暗いが、空の端には朝の気配が滲んでいる。
窓の外では、城下町のパン屋が煙を立ち上げ始め、井戸端では水を汲む音が響き、遠く鍛冶屋が鉄を叩くリズムが聞こえてくる。
この街、アルシェは、確かに少しずつ、目を覚まし始めていた。
「ん……おはよう、ユーリ」
隣で柔らかく声がした。リディアだ。寝癖のついた髪を指先で押さえながら、欠伸混じりに顔を覗き込んでくる。
「……もう朝か。そろそろ起きるか」
「今日は領地の評議会があるんでしょ? 私も政務室に顔出すから、先に着替える」
そう言って、リディアは毛布を跳ね上げて軽やかにベッドを抜け出した。代わりに、ぬくもりの残った空気がわずかに揺れ、外の涼しさを連れてくる。
次に目を開けたのは、アリア。銀色の髪が枕に広がり、まだ半分眠たそうなまま俺に微笑みかける。
「おはようございます、兄様……」
「おう。今日も手伝ってもらうぞ」
「はい……精一杯努めさせていただきます」
彼女はどこかふわふわした雰囲気のまま、ゆっくりと身を起こした。その動作が、柔らかな陽の光を帯びて神聖なものに見える。だが、本人にその自覚はまったくない。
そして、扉の向こう――時間をぴったりと見計らったように、ノックの音が響いた。
「ユーリ様、朝の巡回記録をお届けにあがりました」
「セレスティアか。……入っていい」
扉が静かに開き、きびきびとした足取りで彼女が現れる。髪をきっちり結い、騎士服に身を包んだ姿は、相変わらず隙がない。
けれど。
一瞬だけ、目が合った。……何かを言いたげな視線が、こちらに投げかけられる。
(……やっぱり、最近どこか様子がおかしい)
だが、彼女はすぐに目を逸らし、書簡を差し出した。
「今朝の報告は以上です。……では、失礼します」
きびすを返し、去っていく姿。どこか硬いようで、ぎこちない。
俺は小さく息をついた。
(なんなんだ、あの視線は……)
ほんのわずか。だが確実に、彼女の“距離”は変わりつつある。
今は、ただそれを、胸の隅にしまうことしかできなかった。
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朝食は、執務棟に隣接する広間で取られるのが日課となっていた。時間は七つの鐘──日の出からほどなくの頃。木の長卓には、焼きたてのパンと香ばしいスープ、地元の野菜を煮込んだ温かな料理が並ぶ。
「ほら、アリア。もうちょっと食えよ。お前また昨日、昼抜いただろ」
「……すみません、兄様。でも、昨晩たくさんいただきましたので」
アリアは恥ずかしそうに俯きながらも、パンの端を小さくかじる。隣でリディアがパンを一口でかじりながら、あきれたように言った。
「そんな小鳥みたいな食い方してるから、いつまでも貧弱なままなんだよ。……ま、可愛いって言われたいなら、それもアリだけど?」
「そ、そんなこと……っ」
ふわりと笑って、エルナがスプーンをスープに落とす。彼女はいつも朝は静かだが、笑顔だけは人一倍あたたかい。
「朝の光……この街、空気がやわらかいですね。森とはまた違うけれど、ここも好きです」
「アルシェはまだ始まったばかりだ。少しずつ整えていかないとな」
俺は椅子を引きながら立ち上がると、空を見上げた。清々しい風が、朝の霞を払っていく。
今日は、午前中に執務、午後から街の視察。昨日届いた報告書には、上下水道整備の試案が添付されていた。あの地図を確認しないといけない。
政務室に入ると、すでにリディアが先回りしていて、机の上に報告書を並べていた。
「ほら、さっさと読んで決裁しなよ。あと、領内の税収、少し上がってたよ。前期比で三パーセント増」
「いい傾向だな。……民の生活も、安定してきた証拠だ」
「そうだね。ま、ユーリが一番頑張ってるから当然だけど」
ふいに褒められて、俺はわずかに口元を緩めた。彼女が素直に評価してくれるのは、やはり嬉しい。
続いてアリアが手紙を抱えて入室した。今日も民からの要望が数通届いているらしい。
「兄様、こちらは商人組合からの請願書です。市場拡張と、輸送路の補修を求めております」
「拡張か……土地の割り振りは、もう少し余裕があったはずだな。リディア、確認してくれ」
「了解。書庫の図面引っ張ってくる」
「エルナ、お前は報告書の保管を頼む。整理整頓はお前が一番得意だからな」
「はい。お任せください」
分担が進んでいく中、部屋の扉が一度だけ静かに開いて、淡く香る風が吹き込んだ。そこには、セレスティアの姿があった。相変わらずのきびきびとした足取りで、封書を手にしている。
「失礼します。王都よりの伝達文です」
机に封書を置き、目を伏せるように軽く一礼。そのまま何も言わずに立ち去る彼女の背中に、俺はほんの一瞬だけ、視線を向けた。
……気のせいか、いや、確かに。
少しだけ長く、俺のほうを見ていたような気がする。
だが、振り返る間もなく彼女は去っていた。淡く、風のように。
「どうかしましたか、兄様?」
アリアが心配そうに覗き込んでくる。俺は小さく首を振った。
「いや……何でもない」
そう。何でもない。 ただの、風のいたずらかもしれない。
「そうだ、ミリアとメルリナにはあとで街の視察に付き合ってもらいたいんけど…」
「わかりましたユーリ様、準備を整えておきますね」
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ユーリ・アルシェリアは、政務の合間を縫い、城館の中庭に立っていた。朝の陽光が石畳を照らし、城門前にはすでに二人の少女が控えている。
メルリナは長く艶やかな黒髪をきゅっと結び、明るい瞳でこちらを見上げていた。その隣に立つミリアは、落ち着いた栗色の髪を背中で揺らしながら、どこか緊張した面持ちで微笑んでいる。
「準備はできています、ユーリ様」
「ふむ。今日は北区の市場と、その周辺を中心に視察する。急ぐ必要はない。街の空気を感じながら歩こう」
ミリアはこくりとうなずき、メルリナは嬉しそうに目を細めた。
城館を出ると、街の中心部へと続く石畳の道が広がる。アルシェはまだ発展途中の町であり、建物の多くは最近建て直されたばかりだ。だが活気はあった。行商人の呼び声、子どもたちの笑い声、パン屋から漂う焼き立ての香り——すべてが新しく、美しかった。
「ここが市場通り……って、ほんと人が増えたな」
ユーリが感慨深げに呟くと、メルリナが一歩前に出て言った。
「この通り、以前は家畜の糞だらけで、通るのも嫌でしたのに。領主様が変わるとこうも変わるんですね」
「いや、俺だけの力じゃない。みんなが街を良くしようと努力してる」
真っ直ぐな目でそう返すと、メルリナの頬がうっすらと紅潮した。ミリアは控えめに微笑みながら、黙ってその様子を見守っていた。
道沿いの店舗を回りながら、ユーリは細かく店主に話を聞いた。商品の供給状況、客足、衛生状態——一つひとつに真剣に耳を傾け、時にメモを取り、時に提案をしていく。
ミリアはその様子をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、すごい方……」
「ん? 何か言ったか?」
「い、いえっ、なんでもありません、ユーリ様!」
慌てて手を振るミリア。その姿にくすっと笑いながら、ユーリは隣のパン屋の入り口に目をやった。
「この辺りの新規店舗も確認しておこう」
市場通りを離れ、旧区画の再開発地へと足を向ける。かつてスラムに近かったエリアだが、今は徐々に新しい家々が建ち始め、住民の表情も明るくなってきている。
「こうやって実際に歩いてみると、まだまだ改善の余地があるな」
「ですが、変わってきています。人々の顔つきが違います」
メルリナが柔らかく言った。その言葉にうなずきながら、ユーリは一軒の建設中の家の前で足を止める。瓦を運んでいた少年が、慌てて帽子を脱ぎ、ぺこりと頭を下げた。
「お、お偉い人……ですか?」
「偉くはないさ。だが、お前たちがこの街を支えてるんだ。怪我だけはしないようにな」
その言葉に、少年はぱっと顔を明るくし、作業に戻っていった
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陽が高く昇り、石畳の街路が少しだけぬくもりを持ちはじめた頃、俺たちは視察の途中でひと息入れることにした。通り沿いに並ぶ屋台の群れからは、香ばしい香りが立ち昇り、人々の笑い声が心地よく響いている。
「ねえユーリ、あれ美味しそう。あの焼きパイ、行こう!」
メルリナが唐突に声を上げて、俺の袖を軽く引っ張った。黒髪を揺らしながら前のめりに駆け出していく姿は、かつての幼なじみそのままだ。
「こら、勝手に走るなって」
苦笑しながら後を追う。近衛騎士団の制服姿で街中を駆けるのは少し目立つが、地元民の目はあたたかい。誰もが俺たちのことを“街を見に来てくれた人”と受け止めてくれているのがわかる。
「ユーリ様、あまりはしゃぎ過ぎると……周囲の視線が」
ミリアがやや困ったように言いつつも、彼女もまた露店の並ぶ通りに目を輝かせている。いつもきっちりした彼女が、ほんの少し緩んだ笑みを見せると、それだけで場が和らぐ気がした。
「たまにはいいだろ。仕事の合間の、買い食いくらいはな」
俺はそう言って、メルリナが指差していた焼きパイの屋台へと向かう。香ばしいバターの香りに、軽く空腹を思い出させられる。屋台の親父が笑顔で紙袋を渡してくれた。
「おっ、あっつ……でも、うまっ!」
一口かじった瞬間、熱い湯気と一緒に、とろけたチーズと肉の旨味が口いっぱいに広がった。これは正解だ。
「おいしいーっ! もう一個買おうかな」
メルリナも満足げに声を上げる。いつの間にか、パイの端にクリームがついているのを見て、俺は思わず指を伸ばしかけたが――
「……自分で拭くから、いいよ?」
「……あ、ああ。悪い」
からかうような目を向けられて、俺は軽く咳払いをしてごまかした。
ミリアはと言えば、紙袋の端を丁寧に折り畳みながら、ゆっくりとパイを味わっていた。彼女なりに、こういう時間を楽しんでいるのが伝わってくる。
「美味でございますわ……あの、ユーリ様。あちらの通りに新しく菓子店ができたと聞きましたが、ご覧になりますか?」
「そうだな。商業の広がりを見るいい機会だ。行ってみよう」
通りを抜けた先には、可愛らしい装飾が施された菓子店があり、看板の下には開店祝いの花が飾られていた。中から漂ってくるのは、シナモンの香りと、何か懐かしい甘さ。
「ようこそ、アルシェの《シュガーリーフ》へ!」
快活な少女が店の奥から出てきて、俺たちに焼き菓子の試食をすすめてくる。ミリアとメルリナが小さく歓声を上げるのを見て、俺は改めて、こういう視察も意味があると思った。
街の発展は、数字や書類だけじゃわからない。こうして、人の顔と声に触れなければ、本当の活気はつかめない。
「……最近、こうやってゆっくりと歩く機会が減っていたかもな」
何気なくつぶやいたその言葉に、隣を歩くメルリナが目を細めた。
「そりゃそうだよ。仕事ばかりだったからね。ずっと屋敷で仕事してたら、身体に悪いもん。少しくらい外に出ないと、感覚鈍っちゃうよ?」
「たしかにな」
ミリアも横から静かに微笑む。
「それに、皆様に街を見ていただくこと自体が、住民にとって安心材料にもなります。……こうして、ご一緒できて、光栄です」
その言葉の裏に、ほんの少しだけ他の意味が含まれているような気がしたが、俺は深くは考えなかった。ただ、昔のように自然に笑い合えるこの空気が、なによりも心地よかった。
───午後の陽が少しだけ傾き、街の喧騒が次第に落ち着きを見せ始める。今日の視察は、そろそろ終わりが見えてきた。
でも、ふたりの視線が時おりこちらに向けられていたことに、俺はほとんど気づいていなかった。




