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朝。アルシェの空は澄んでいた。


窓を開ければ、新たな街に生まれた活気が通りにあふれ、遠く市場のざわめきまで届いてくる。領主館はまだ完全には整備されていないが、それでも最低限の生活には困らない環境が整っていた。使用人の数は少ない。ほとんどのことは、俺と――そして、妻たちの手によって運営されている。


「ねぇ、そこの資料、まだ終わってないの?」


部屋の隅から聞こえた声に顔を上げる。リディアが頬を膨らませて書類の束を突き出していた。


「それ、昨日のうちに片付けておけって言ったのに。ったく、使えないわね……ほら、さっさと確認して」


「はいはい、今やるよ」


ため息交じりに受け取ると、彼女はふんっと顔を背ける。いつものツンケンした態度。けれど、こうして毎日仕事を手伝ってくれていることが、何よりの信頼の証だった。


「兄様。お茶をどうぞ」


今度はアリアがやってくる。丁寧にトレイを両手で抱えて、俺の横に座ると静かに微笑んだ。


「ありがとう、アリア。助かるよ」


「いえ、当然のことです。兄様の役に立てるのは、私の……いえ、私たちの喜びですから」


頬を染めたまま言うその姿は、どこか少女のように初々しい。彼女は昔から一途で、素直で、誰よりも家族を大事にする優しさがあった。


その傍らで、エルナが庭から戻ってくる。いつもの風の魔法を使って、花壇の手入れをしていたようだ。


「風精霊が、ここの空気は澄んでいて心地いいって言ってたわ。きっと、ここは素晴らしい土地になる」


「頼もしいな、エルナ」


「ふふっ、私がついてるもの。……まあ、ユーリが無茶さえしなければね」


軽口を交えながらも、彼女の瞳は真剣だ。精霊族の姫であることを隠しながらも、こうして共に歩む彼女の覚悟は重い。そしてその想いを、俺は誰よりも理解しているつもりだった。


――ただ一人、気になるのが、セレスティアだ。


彼女は最近どこか落ち着きがなく、俺たちのやり取りを遠巻きに見ては、ふっと視線を逸らすことが多い。何か気になることでもあるのかと思って声をかければ、たいてい「問題ありません」と返ってくる。


今日も、いつものように門番の報告を聞きに外へ出ると、門前でセレスティアが警備兵に指示を出していた。


「……午前の巡回は東門から。食糧搬入車のチェックを念入りに。あまり愚図つかないように」


テキパキと仕事をこなす彼女の姿は、まさに騎士の鑑だ。けれど、ふとこちらに気づいたその瞬間――目を見開いたあと、ほんの一瞬、目をそらした。


「セレスティア。ご苦労さま」


「……ユーリ殿」


「……“ユーリ”でいいって、そろそろ慣れてくれてもいいんじゃないかな?」


「……いえ、そういうわけには…」


明らかに困ったように頷く彼女。その頬が、いつもよりわずかに赤みを帯びているように見えたのは、気のせいだろうか。


(まさかな……)


そう思いつつも、胸の中にひっかかるものは残ったままだった。


セレスティアは騎士として、強く、真っ直ぐな人間だ。その分、心を揺らすことには鈍感かもしれない。だが、それでも彼女は確かに――何かに、揺れている。


その理由が、俺たちとの関係なのか、それとも――


ふと、夕暮れの街を歩いていた時のことを思い出す。子供たちが笑いながらパンを買い、夫婦が手をつないで歩く光景を見ていたセレスティアの、あの少しだけ寂しげな表情。


俺の隣で、彼女は何を思っていたのだろう。


(……焦ることはない。今は、少しずつ――)


彼女の気持ちに気づいた時、きっと答えは見つかるはずだ。



---------------



「アルシェリア様、王都よりの伝令でございます」


午睡前の静けさが漂う中庭に、甲高い声が響いた。俺は書類を片付けていた手を止め、顔を上げた。


「ご苦労。渡してくれ」


巻物を受け取り、その場で封を切る。


――王都よりの命。騎士セレスティアに対し、当面の間アルシェ領に留まり、領主ユーリ・アルシェリアの護衛を続行せよ。


俺は小さく息をついた。


「……そう来たか。こちらは助かるんだけど、セレスティア大丈夫かな?」


セレスティアの働きぶりは申し分ない。いや、それどころか、護衛としては優秀すぎるほどだ。こちらとしては喉から手が出るほど欲しい人材でもある。


「――ところで」


伝令が言葉を続ける。


「同じ命令を、騎士セレスティア殿にも直接届けるよう命じられております。先ほど別の使者が到着されたと」


「なるほど。彼女には彼女で、直接知らされたってことか」


なんとなく、セレスティアの顔が浮かんだ。


どう感じただろう。喜んだのか、それとも嫌がったか――


少なくとも、前者ではないはずだった。彼女はあくまで“任務”で動いている。俺との関係も、旅の仲間たちとの距離も、その一線を決して越えようとしない。


……けれど、最近。


彼女の目が、少しずつ変わってきている気がしてならなかった。


***


その日の夕刻。屋敷の裏庭で剣の稽古をしていたセレスティアを見かけた。


長く艶やかな黒髪が風に揺れ、鋭い切っ先が空を裂く。ひと太刀、またひと太刀。寸分の迷いもない流麗な剣筋。


だが――今日の彼女は、どこか動きが固かった。


張り詰めた表情。普段ならありえない手元の乱れ。まるで、何かを誤魔化すかのように、無理やり集中しようとしているような。


(……やっぱり、あの命令が原因か?)


俺は静かに近づいて声をかけた。


「……今日はちょっと調子悪いんじゃないか?」


セレスティアは僅かに肩を揺らし、振り返った。


「ユーリ殿。……いえ、大丈夫です。いつも通り、ただ少し……風の影響でしょう」


「風ねぇ……その割には、ずいぶんと浮かない顔に見えるが?」


一瞬、彼女の視線が泳いだ。


「……いえ、気のせいです。私にも、王都からの命令が届きました。それだけの話です」


そう。彼女はすでに知っていたのだ。


だがその瞳は――わずかに戸惑い、そして安堵すら滲ませていた。…いや、微かに笑っているようにも見える。


(なんで……あいつ、嬉しそうなんだ?)


嬉しい――まさかそんな感情が、セレスティアに? 


いや、あのセレスティアが、俺の護衛を続けろと言われて、ホッとしてる?


「……命に従うまでです。それが私の務めですから」


彼女は淡々と言った。けれど、その声の奥に、いつもと違う何かがあった。


俺は少し口を開いたが、すぐに閉じた。無理に詮索するのは違う。ただ、言っておきたいことがあった。


「ありがとな。これまで助けられてばかりだ。しばらく一緒にいてくれるのは心強いよ」


セレスティアは、ほんの僅かにまばたきをして、目を伏せた。


「……そう言っていただけるのは、光栄です」


その声音には、たしかに迷いがあった。戸惑い。そして――どこか、気づきかけているような。


自分の中にある“何か”に。


***


後日、エルナにこんなことを言われた。


「セレスティアさん、最近よくぼーっとしてるんですよ。朝の支度のときなんか、髪を櫛でときながら……鏡に向かってにやって笑ってたり」


「にやって……?」


「ええ、ほんとに。怖いくらいに。あれはたぶん、自分でも気づいてない顔です」


「……それは、どういう意味で?」


エルナは微笑んだ。


「乙女心って、案外そういうもんなんですよ、ユーリさん」


俺はその言葉の意味を考えながら、窓の外に目をやった。


訓練場で、また剣を振るっているセレスティアの姿が見えた。


今度は少し、顔が赤かった気がする。

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